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母の代りに救護町へ

ページ番号:0002107 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

真崎マサエさん(諫早市黒崎町)

3月も終わりとなり、桜のつぼみもやっとほころびてまいりました。私は先日より連絡を受けました被爆者救護員の一人でございます。なにしろ36年という月日と、当時の恐ろしさは忘れよう、忘れようと努めたせいか、大概のことは忘れたようです。当時を振り返ってみますれば、私は18、大村女子職業学校を卒業して1年、私の父は当時黒崎消防団の小頭、今の分団長でした。そのため家の農作業は全然出来ず、空襲警報の連絡等、家にいる暇はほとんどありませんでした。私ども若い者は、女子挺身隊としてみんな、徴用とかり出されていたのですが、私は戦時農業用員として家で百姓をしなければならないのでした。あの日、母と二人で連ゲ石岳の中腹にある畑に小豆の草取りに行ってました。B29らしい飛行機が飛んで来たと思ったら空襲警報が鳴りました。母と山の中に隠れていると長崎と見られる所にピカッと光り、間もなく昼近くというのに、薄暗くなりお日様が十五夜のお月さまのように丸くはっきり見えたので、恐ろしさと、家にいる幼い弟や妹のことが気になり、急いで家に帰りました。こんなに離れた私たちの所までゴミのような物が飛んできて、洗濯物に付いていたようでしたので、ただごとではないぞと話していたら、その夜だったか翌日だったでしょうか、町内で各班ごとに婦人会で炊き出しをして諫早に持って行き、手伝いをしてくるようにと伝えがありました。私も母の代わりに出て、若い者から諫早の方に行くようにとのことでしたので、現場の様子を知らない私は、挺身隊の友のように働けるぞと、赤十字の看護婦にでも行くような勇んだ気持ちで行きました。ちょうど当時の諫早女学院の辺りを行く時、側を担架に被爆者を乗せた人に会いました。その姿といったら、何にも着せず裸でその火傷の姿におもわず顔を背けました。そして胸からムカッと出てくるのを、おもわず手で押さえ、もし軍人さんにでも見られたら叱られると思い、また被爆した人に悪いと思い、ぐっと堪えたのです。それから、現場に着くまで2、3の担架や戸板に乗せられた人と会い、目的地の旧諫早中学校に着き、それからどう連れて行かれたかはっきりしませんが部屋の中に連れて行かれたのですが、びっくりして飛び出したくなりました。あのくさい臭いは何とも、例えがたく、今思い出しても、吐気がしそうです。それに、呻き声、泣き声、係の人の指揮の声等入り混じり、もう自分がどこにどうしているのかさえわからぬくらい、魂の抜けた人間のようでした。くさいのと恐ろしさでいっぱいでした。でも来た以上帰ることはできません。ふと近くにいる人を見ると、頭は小さく顔は南瓜のよう、それもチリメン南瓜のようにブクブク腫れておられます。聞けば頭は鉄カブトを被っていたから良かったとのことでした。またある人は、怪談のお岩さんもこんな顔だったろうかと思う顔の人もおられました。今思い出すと、本当にそんな顔ってあるだろうかと思いますが、確かに当時そのように記憶していました。家に帰っても昼間の臭気が体から抜けず、どうしても食事が取れなかったものです。もう明日は行きたくないと思うけど、人に出動を頼む父の立場を思うと、また山里町の叔母たちの家族のこともあって、もしや諫早の救護所に来てはいないかと思い行きました。顔を負傷されている方々が多く、到底見つけ出すことは出来ないと思いましたが、先方が私を見つけ出してくれはしないかと、出来るだけ部屋の中を手伝いながら廻りました。私たちに出来ることは、水を汲んだり、タオルを洗ったり、汗を拭いてやったりくらいの手伝いしか出来ず、時には古い下着など持って行って着せたりしました。救護作業も終わる頃、駅で叔父といとこに出会いました。叔母を捜していたが見つからなかったといって、傷ついた体で私の家に来ました。叔母は親類の必死の捜索にも見つからずある夜、肉親に夢を見せ「井戸端を見てくれ」と言ったそうでした。井戸端には畳の焼けた上に電線が落ち、その下にきれいな灰となり、着物の端切と少々の骨があったといって持って来られたのです。私は、おもわず「ああ良かった」とつぶやきました。救護所の被爆者の姿を考え良かったと思ったのでしょう。それからニケ月ほど、また家で被爆者看護をすることになりましたが、救護所ほどのことはありませんでした。黒崎におられた野田医院の先生の手当が良かったのか、傷は早く癒えて日々に良くなり、回復が早かったのです。とりとめもないことを書きましたが、私の記憶はこれぐらいです。ただ、臭いが辛く恐ろしかったの一言に尽きると思います。