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脳裏に焼きつく3日間!

ページ番号:0002106 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

上松タツエさん(諫早市永昌町)

8月9日
とても暑い午後でした。空襲警報が解除になりホッとひと息ついて7カ月になる娘に乳を飲ませていると、突然「ドーン」と大きな音がしたかと思うと、目の前の国道を、真赤に燃える火の玉が「ゴーッ」と、転がっていくではありませんか。爆弾が、すぐ近くに落ちたのに違いないと思い、とにかく子どもを、三人の子どもを防空壕へ―。無我夢中でした。
しばらくすると、壕の外に、人々の騒ぐ声がします。見ると、空一面が真赤に燃え、私の足元までも真赤に染めたのです。
と、あっという間に、燃える空は一面黒い雲に覆われたように、不気味な暗さになったのです。そしてそこには、ただ、膨張して何倍も大きくなったような太陽だけが赤く、赤く、燃えていました。訳の分からぬ恐ろしさにあ然としていると、誰かが突然「フーセン爆弾だ!」と言い出しました。すると皆、口々に「フーセン爆弾だ、フーセン爆弾だ!」と、騒ぎ出してしまったのです。3時頃だったでしょうか。父の知らせで、長崎に爆弾が落ちたことを知りました。その時は「原爆」等という言葉さえ、よく知らなかったのですから、それからが大変でした。それぞれの班の婦人たちは、救護に行く者、炊き出しをする者とに別れ、私も救護団の一員となって、駅への道を急いだのです。駅は、大混乱でした。消防団員や駅員の方々が、総出で汽車の中の負傷者を抱えては、ホームに寝かせておられます。その負傷者の方たちを目前にして、あまりの惨さに、声も出ませんでした。髪は焼け、着衣は破れ、顔や身体は、赤く黒くただれ、異様な臭いが漂い、「水を、水を…」と、呻く声、声、声…。まるで、生き地獄を見ているようでした。救護団員の中には、気を失う人や嘔吐する人もありました。私たちは、言われるままに、用意してあった担架で、負傷者を諫高の校庭まで運ばなければならなかったのです。最初に運んだ方は、50歳位の男の人でしたが、顔も形も分からないほど焼け、目は飛び出し、鼻はグシャグシャで、つい顔を背けそうになる自分を、制することは出来ませんでした。肩の皮がズルズル剥けるので、消防員の方に手伝ってもらい、やっとの思いで、担架に乗せたのです。途中、聞きとれぬような小さな声で「水を…、水を。」と、唸っておられました。校庭には、何人もの負傷者の方が、ムシロや藁の上に、ゴロゴロと寝かされておられました。駅に戻ると、驚いたことに、ホームは負傷者、いえ被爆者の山。あちこちで「水を…水を…」と言う声。
息絶えてゆく人たちの姿も、そこここで見られました。2度目に運んだ人は、中年のご婦人でした。着衣は破れ、髪は焼けていましたが、最初の方程、酷くはありませんでした。ただ、担架の上で「坊ヤァー、坊ヤァー」と泣いておられたのが、哀れでした。その後、三人程運びました。
帰宅したのは、七時頃だったでしようか。もう日暮れでした。ぐったり疲れが出てしまい、何をする気にもなれず、まだ臭いが体中に染み付いているような気がして、その日は夕食もとれませんでした。
8月10日
班から3人、海軍病院へ派遣されました。9時頃、病院へ着くと、広い部屋へ通され、そこには、幾つものベッドが並んでいました。私は、端から3番目に寝ておられる男の人のお世話をするようにと言われました。包帯を全身に巻いた、40歳位の方でした。おかゆを食べさせたり、薬を飲ませたり、下の世話をしたり、回診時には、看護婦さんと二人がかりで、包帯を解いては、薬を塗ったり…。
また、手が空くと、他の二人の患者さんの下の世話をしたり、体を拭いたりして、1日を過ごしました。帰宅したのは、5時頃でした。
8月11日
班の方4人と、海軍病院へ行きました。昨日と同じ部屋へ通され、4人の患者さんのお世話をすることになりました。包帯を解くとき、「痛いー、痛い。」と泣く人もいましたが、どうすることも出来ず、ただ薬で真赤になった体を、だまって見るばかりでした。手に軽い火傷をした5歳位の男の子が、病室を歩き回っていましたが、いつの間にか病室を抜け出て、長い廊下をどんどん歩いて行くではありませんか。先日運んだご婦人の「坊ヤァー」という声を思い出し、慌てて追いかけて行くと、ちょうど、角に病室があり、入ろうとすると看護婦さんに固く、止められました。水兵さんの病室だから、立入禁止とのこと…。
坊やを抱いて病室へ戻りましたが、母親にはぐれたのではないかと、気がかりでした。その日の帰り、何気なく病院を振り返り、見ると奥の方から煙が見え、何かと思い尋ねると、「あれは、亡くなられた被爆者の方々を、焼いておられるのよ!」と言われ、なんとも重苦しい気持ちで、帰路につきました。
私の父は、9日は駅に、10日からは女学校にと、ずーっと詰めており、朝夕の食事のために帰宅するだけの毎日でした。長時間、被爆者の方たちと接していたため、丈夫だった父が、その後急激に衰弱し、充分な診療も受けることなく、とうとう、白血病で、昭和25年1月25日、62歳で他界しました。この3日間は私にとって、生涯忘れられない出来事として、永遠に脳裏に焼きつき、離れることは無いのです。