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500人位の被爆者を

ページ番号:0002104 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

東川ミサノさん(諫早市本明町)

私は、昭和17年3月から諫早市役所に勤務しております。原爆が投下された当日は、仲沖名の市有田の田の草取りに出役し、6~7名で作業中でした。爆音が聞こえたので、みんなと土手に伏せてしばらくしたら「ピカーッ」と閃光がしたかと思ったら大きな火の玉のような物が、降下して今度は、空に向って上昇したような(瞬間的)感じがしました。その後、空の太陽は、夕焼のように燃え、その異状さにどうしたんだろうかと話して空の方ばかり見ておりましたところ、落下傘のような白い物が3個落ちているのを見ました。
心配しながら作業を続けていたら午後4時頃ではなかったかと記憶しますが、早く帰庁するように連絡がありましたので、市役所に帰りました。庶務係の友達が、目を赤くして私たちの方に来ますので、どうしたのかと聞きますと、長崎で被爆を受けた人たちが、送られて来ているがそれを見たらもう涙が先に出て、どうしたらよいか分からない。髪はちぢれ、顔は黒く焦げて誰かの判別もつかないような人たちばかりと言うので、私たちもびっくりしました。それから救護所との電話連絡とか救急用品の準備等で遅くまで市役所にいました。
8月10日は、午前8時頃に出勤しましたが、昨日から夜どおし被爆者が、汽車とかトラックで送られ旧諫早女学校(現在諫早商業高校)、旧農業試験場、旧諫早中学校(現在諫早高校体育館旧建物)、旧諫早小学校講堂(現在市役所)に収容されているから看護に行くように言われました。私は、他の女子職員5~6人と炊き出しのおも湯をバケツに入れ、棒に下げて二人一組で持ち、途中で空襲警報のサイレンが鳴ると避難したりして当時の諫早女学校から各救護所をまわりましたが、初めて被爆者を見て想像以上の悲惨さに、しばらくはどうしたらよいか分からない位でしたが、おも湯を持って行ったことが分かると、あちこちから早くくれと言われて重症の人には、上半身を起して飲ませ、軽症の人には、おにぎりを取ってやり、また水をくれという人があり、走りまわらなければなりませんでした。私が、世話した患者は、1ヶ所で15~20人位だったと思います。どこの救護所も、こんな状態で市役所へ帰ったのは、午後9時頃だったと思います。
8月11日今日も、午前8時頃出勤し昨日と同じ職員とまた、おも湯等持って各救護所をまわりました。昨日より患者が増し、また暑さのため具合が悪くなる者が多くなり、昨日まで、座っておにぎりを食べていた者が、動けなくなったりして、食事をやるにも手がかかり、便所に行けないので、便器を持って行ったり、また、下痢して着物を汚したから取り替えてくれと言われ、私一人では、どうにもならないので、他の女子職員と一緒になり取り替えてやりました。とくに女学校は、駅に近い関係もあってか重症者が多く、朝鮮の人で、半裸で仕事をしていたらしく、上半身の火傷が酷く皮膚は、ベラベラで衣類の取り替えにも痛みを訴えるので看護するのに大変困りました。
帰りは薄暗くなっていたので9時頃ではなかったろうかと思います。
8月12日昨日と同様の勤務でしたが、日が経つにつれて重症となり暑さのため体の焦げ傷の所が、腐り始め皮下には、ウジが湧き臭気が出始めマスクは、1日3回ぐらい取り替えても臭いが染み込んで自分が具合悪くなるようでした。死亡者も多くなり死体は、3~4人がかりで出口の方に運び処理しました。各救護所も同様で重症者の呻く声。早く来てくれ、というので行ってみれば、「ウジが目に入っている。耳に入っている。ハエが、付いて痛い、早く取ってくれ」と、それで、剥がれた皮膚を摘み上げチリ紙を折って取ってみるがなかなか取れない。それでなお暴れるので困りました。そうしていると一緒に行った職員で、子安順子さん(現在死亡)が、「東川さん早く来て下さい」と呼ぶので行ってみると、「ウジを取っているが、取れないので取ってみてください」と言われるので取ってやりました。この日も私が、取り扱った患者は、50~60人以上であったと思います。帰りは前日と同じく9時頃でした。その後も8月末日頃までだったと思いますが、日曜の休みもなく前記同様、被爆者の看護に当たりました。日が経つにつれて皮膚から腐りが酷くなり、着物の取替や用便にも一人では出来ず、他の女子職員にも手伝ってもらいそっと抱えるようにして取替えてやりました。朝は8時頃から午後9時頃までの毎日でしたから、自分が、疲れてしまい食事も臭気がはなれず思うように取れませんでした。こうして8月10日から8月末日頃まで私が、看護に当たった人は、延べ500人以上ぐらいだったと思います。今、考えるとよくあれだけの看護が出来たものと思います。
9月に入ってからも総務課、庶務係であったため、警察署と連絡をとり遺族へ遺骨の引き渡しなど、相当期間、残務整理に当たりました。