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8月9日の記憶
子どもたちへの伝言
8月9日前後の記憶
鳥越 輝幸さん(諫早市)
※この体験談は、令和5年10月に、鳥越輝幸さんからお話を伺った内容を掲載しています。
鳥越 輝幸さんは、昭和9年(1934年)生まれ。終戦当時は11歳、諫早駅の近くに住んでいました。
<原爆が落とされてからの数日間>
当時、私の父は台湾に出兵しており、母と6つ下の弟と暮らしていました。
長崎に原爆が落とされた8月9日は、山の上の畑(現在の鎮西学院の前あたり)で母と一緒に芋掘りの準備をしていました。
午前11時になる前に、長崎方面の空に飛行機が2機飛んで行ったのを覚えています。突然、「ピカッ!」と、太陽が見えなくなるくらいの強い光が空を覆いました。初めは何が起きたのか分かりませんでしたが、しばらくして「ドーン!」と大きな爆弾が近くに落ちたかと思うくらいの轟音が鳴り響きました。その後、長崎の方から立っているとふらつくくらいの強風が吹きました。しばらくすると空は曇って、大きな太陽は今までに見たことがないくらい真っ赤になりました。
午後になって、お弁当を取りに諫早駅の近くの自宅に戻ろうと山を下りると、駅のホームが騒がしく、覗いてみると怪我をした人たちがたくさん運ばれてきていました。大きな水ぶくれができている人や、腕の肉が裂けている人など皆血だらけで、苦しそうに「水をくれ、水をくれ」と言っていました。しかし、周りは「飲ませたらいかん、飲ませたら死んでしまう」と言うのです。その苦しさは想像を絶するものだったと思います。
怪我をした人たちは治療のために近くの海軍病院や公民館などに運ばれていました。すぐに治療ができない人もいて、傷口からウジ虫がわいている人もいました。
亡くなった人は、諫早競馬場(現:県立運動公園)に運ばれ、火葬していたようです。様子を見に行ったら、消防団や青年団の人が、亡くなった人が誰なのか、ポケットなどに手掛かりになるものが入っていないかを調べた上で、焼いていました。誰だか分からない人は仕方なくそのまま焼いていたようです。顔を見ても分からないような状態でしたので、その中には、もしかしたら知り合いがいたのかもしれません。
<長崎へ行った日>
原爆が投下される1年前は爆心地から約2kmの長崎市家野町に住んでいました。私たちは諫早に引っ越してきたことで命拾いをしたのです。
原爆が投下されて1週間後くらいに、近所だった人も大変だろうと母と食べ物をたくさん持って長崎へ行きました。しかし、被爆後の長崎は変わり果てており、そこに誰一人知っている人はいませんでした。持って行った食べ物は、知らない人でしたがきっとお腹を空かせているはずだからと全部あげて帰りました。
三菱工場の大きな鉄骨は折れ曲がり、屋根でも何でも落ちてしまっているような状況でした。途中、停まっていた電車があったので近くに行ってみましたが、誰も乗っていませんでした。電車の窓は割れて、縁のところにガラスが溶けたものが丸く固まっていました。それを触るとポロっと取れたので、家に持ち帰ったのですが、現在は手元に残っていません。
<戦後の生活>
戦後はお金もなく(お金があっても物がなかった時代ですが)、さつま芋やジャガイモ、フキやツワ、麦などを食べて命を繋いでいました。芋のツルも干して食べていたのを覚えています。復員して軍人が帰って来た時は、饅頭や芋をふかして皆に食べさせていました。
<最後に>
私は、人間は誰でも良い心と悪い心の両方を持っていると思います。しかし、悪い心を閉じ込める、抑え込むことが必要だと思います。自分の言うことをきかないからと言って仲間外しにする、攻撃するようなことはしてはいけない。悪い心に負けず、良い心を出し続けることを大人が続けること、それを子どもに教えていくことが大事だと思っています。そして皆が「助け合いの心」を持って人と接することができれば、平和な世の中になるのではないかと思います。
(令和5年10月聞き取り)