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出征した父と家族の思い出
子どもたちへの伝言
出征した父と家族の思い出
野元 政子さん(雲仙市)
※この体験談は、令和5年8月に野元 政子さんからお話を伺った内容を掲載しています。
野元 政子さんは、昭和14年(1939年)生まれ。終戦当時は6歳で、森山町に住んでいました。
<父の出征>
父は昭和19年(1944年)に出征しました。別れの時、母が33歳、姉7歳、私は5歳、弟は1歳でした。
父は、「俺が死んでも、日本が勝つので、家族みんなが幸せになる」と言い、森山駅から出発しました。家族みんなで泣いて泣いて見送れないほど泣き、祖母を困らせたことを覚えています。
<父との思い出>
当時、幼かった私の父との思い出は、父からバナナをもらったことでした。
父は、入隊前に「農業研修に行く」と言って出かけたことがありました。帰ってきた父は「バナナをたくさん食べろ」と、テーブルにバナナを置いて私たちに渡してくれました。今になって思うと、父は入隊前の訓練に行ったのだろうと思いますが、家族を心配させないよう、「農業研修」と嘘をついていたのかもしれません。
また、出征の前、父は井戸のそばで、私たち姉弟に「皆の分はないから早く食べれ」と、バナナを1本ずつ渡してくれました。それが父との別れの儀式になりました。
<戦時中から終戦まで>
空襲警報が鳴る、鳴る。
毎日枕元には防空頭巾と服をたたんで寝ていましたが、寝たと思ったら、空襲警報ですぐに起こされて、防空壕に駆け込み、中に入ると一安心でした。
空襲警報が解除になると、ぞろぞろと家に帰る。この繰り返しの毎日でした。
特に終戦頃には、学校に行っても空襲警報が鳴ると、すぐに高等科のお姉さんが手をつないでくださり、地区ごとに団体で帰っていました。飛行機が来たら草むらなどにすぐに伏せろと教えられていましたが、すぐに伏せができた日の翌日は、先生に褒められたこともありました。先生は高い場所から生徒たちの行動を見て、安全を祈っていてくれたのでしょう。
8月9日に原爆が投下された時には、最初は雲が真っ黒になり、しばらくしたら、空が真っ赤に染まったのが我が家からも見えました。
その後、怪我をした人が、どんどん帰ってくるのを見て、あまりの悲惨さに弟が「いたい、いたい」と泣いていたのを思い出します。
すぐに8月15日の終戦を迎えました。
<終戦後>
私たち姉弟3人は、父の帰りを待って、島原鉄道釜ノ鼻駅に汽車が着くたびに家を飛び出し、駅に走りました。たまに兵隊さんが降りてくると、急いで駆け寄りますが、父ではなくがっかり。そのような生活が2年ほど続きました。
我が家の下の家のお兄さんが復員した時は、とてもうらやましかったです。
何年過ぎたか定かではありませんが、父の戦死の知らせがありました。しかし、届いた白木の箱は骨もなにも入っておらず、空っぽでした。父の遺骨や遺品すら見つからなかったのかもしれません。
他人の前では涙を見せませんでしたが、母と私たちは、夕方、仏様の前で毎日泣きました。
<今になって思うこと>
父の戦死の公報が来てからは、仏壇の前で泣く毎日でした。
あまりに母が泣くので「やめやい。親孝行するから。」と言ったら、母はその日から泣くのを止めました。
今、84歳になって思うと、母に「もっと泣いてもいいよ」と言えば良かったと胸が痛みます。一番苦労したのは母だと思います。
後家ということで、あらぬ噂をたてられたり、大変なこともありました。しかし、母はびくともしませんでした。「人が何を言おうと、仏様が知っているから。自分がまっすぐ生きていれば良いんだから。」と言うのです。
私も、まっすぐ生きていれば、必ず道は開けると信じています。
母はおかげ様で、101歳までの天寿を全うしました。
<最後に>
現在、私は、姉弟のほか、夫、子、孫、曽孫に囲まれ、幸せに暮らしています。
23歳で結婚し、北海道で約45年暮らし、夫の両親の介護のために故郷に帰りました。現在は趣味のダンスやパークゴルフ、アマチュア無線、旅行など、充実した日々を過ごしています。どこにいても人間関係に恵まれ、幸せな毎日を過ごすことができるのは、亡き父と皆様のおかげだと思います。感謝しかありません。
戦争は、家族が離ればなれになり、辛いことばかりです。私たち家族のような辛く悲しい想いは誰にもしてほしくありません。戦争のない平和な世界になることを、心から願っています。
(令和5年8月寄稿)