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私の被爆体験記~とっさにふとんをかぶせてくれた母に感謝~

ページ番号:0016931 更新日:2023年8月18日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

私の被爆体験記 ~とっさにふとんをかぶせてくれた母に感謝~

土橋 重利さん(諫早市)の被爆体験

※この体験記は、土橋さんが長崎原爆資料館へ応募され、令和4年7月7日に収録されたものと同じ内容のものを、本市へ寄稿いただいたものです。

長崎原爆資料館への応募経過

土橋重利さんは、被爆当時5歳で、長崎市南部の大浦元町(おおうらもとまち)の洋館に住んでいた。原爆落下の瞬間は、一緒にいた母親がとっさにふとんをかぶせてくれ、家中のガラスが割れたのにケガをせずにすんだという。父を亡くし、兄弟姉妹7人で協力しながら苦しい時期を乗り越えて成人したが、自身から被爆者を名乗ることはなかった。同じ被爆者の妻を見送り、公務員を退官してからは、自分の経験を語ってもよいかと思い、応募したという。

「異人部屋」での暮らしと、空襲の日々                         

 私は間もなく誕生日が来ると82歳になります。現在は諫早市に住んでいますが、もともとは長崎市大浦元町という、かつての外国人居留地界隈に住んでいました。原爆落下当時は5歳でした。

​ 私の家族は、三菱長崎造船所に勤める父千代重(ちよしげ)と母クマの間に兄弟姉妹が7人おり、私は上から5番目でした(末の妹は原爆の翌年に生まれ、胎内被爆をしています)。

 当時、私たち家族は大浦元町の洋風建築に住んでいました。明治期に長崎にやってきた欧米人の住居として建てられた洋館で、この界隈に多くあり、長崎では「異人部屋(いじんべや)」と呼ばれていました。今も、東山手町(ひがしやまてまち)にはいくつかの洋館が保存されていますが、ちょうどあのような感じで暖炉やベランダなどもあったと記憶しています。建物も大きく、天井が高くて部屋数もあったことから、ここに5世帯ほどが共同で生活していました。私たち家族は1階の2部屋を使っていました。

 私を含め、幼い子どもたちはあまり戦争中という意識はなくて、同じ家に住む他の子どもたちといつも庭で遊んでいました。ただ、常にお腹を空かせていたのは覚えています。米のご飯は食べたことがなかったですね。配給で手に入れたさつまいもに麦の粉を混ぜて練って蒸した、私たちは「ねったくり」と呼んでいましたが、そのようなものを毎日食べていました。

 空襲はしょっちゅうありました。夜、空襲警報が鳴ると部屋の電気の笠に、母が黒い布をかぶせて、あかりが外に漏れないようにしていました。兄たちが通っていた北大浦国民学校に防空壕が4つあって、そこに避難することもありました。時には夜通しその中にいて、炊きまかないをして食事をし、過ごしたこともありました。

 10歳上の長男譲治(じょうじ)は15歳だったので、梅ケ崎(うめがさき)の郵便局で働いていました。今は長崎駅の近くに本局(現在の中央郵便局)がありますが、当時はこの梅ケ崎の郵便局が本局で、兄はそこで郵便物の仕分けなどをやっていたようです。私はよく母に頼まれて、兄に弁当を持って行っていました。私たち子どもはいつも芋と麦の「ねったくり」しか口に入りませんでしたが、兄の弁当には生玉子が入っていました。兄弟姉妹で唯一兄が働いていたことから、母が「栄養をつけんば」と入れていたものです。私は、その生玉子を割らないよう、気を付けて弁当を運んでいました。

突然の父の死から1週間後に落とされた原爆               

 原爆が落とされる直前、昭和20年8月1日に父親が亡くなりました。造船所の爆撃でやられてしまったのです。そのショックも冷めやらぬうちに、8月9日、浦上に原爆が落とされました。

 その日、家の中にいたのは私と母の2人だけでした。私は原爆が落ちたその瞬間の光や音はあまり覚えていないのですが、とっさに母がふとんを私の上にかぶせて、しばらく2人でふとんの下でふるえていたのはよく覚えています。爆風で家中のガラス窓が割れて吹き散らされました。もし、母がふとんをかぶせてくれなかったら、私の体中にガラスの破片が刺さっていたことでしょう。

 しばらくしてふとんの下から這い出しました。原爆落下時、私の2人の姉や弟は庭で遊んでいました。姉の清子(きよこ)と弟の邦彦(くにひこ)は爆風で少し飛ばされ、清子とその下の姉の静子(しずこ)はガラスの破片でケガもしていました。しかし、幸いなことに家族の被害はその程度で済みました。落ち着いてから、母は私に「中新町(なかしんまち)のおばあちゃん(父方の祖母)の家の様子を見てきて」と言いました。私は兄弟の中でもおばあちゃん子だったのです。中新町は大浦元町とは一つの山の北側と南側で、間に墓地もあって500メートルほど離れていました。私は、松本酒屋の角を曲がって坂段をのぼり、祖母の家を訪ねてみました。家はもぬけの殻で、棚からラジオをはじめあらゆるものが床に落ちて惨憺(さんたん)たるありさまでした。しばらく茫然としていると、おばあちゃんが隣の家の防空壕から元気な姿を現して、心底ほっとしました。

 その日、夕暮れになると浦上方面の空一面が真っ赤に染まっているのが、家のガラスのはまっていない窓から見えました。恐らく、ずっと燃えていたのが昼間の明るさの中では気づかず、あたりが暗くなったことで、その異常な赤さが目についたのでしょう。大人たちは「今までのものとは違う、もっと大きな爆弾が爆発した」と噂をしていました。

 私の父方の親戚はだいたいこの大浦や中新町界隈(かいわい)におり、母方の親戚も実家のある伊良林町(いらばやしまち)で、どちらも浦上方面ではありません。特に親戚の中で被爆で亡くなった人はいなかったのではないかと思います。

母と野菜や乾物を売り歩き生計をたてる                 

 私にとっては原爆もさることながら、その後の生活の再建が大変だったという印象があります。父を亡くし、母は特に手に職があるというわけでもなかったので、小さい子どもたちを抱えて本当に苦労したと思います。終戦の翌年2月、母は妹を産みましたが、悲しいことに小学校を上がる前に亡くなりました。栄養失調だったのではないかと思います。今でも覚えているのは、母が「父親の顔も知らないのに天国に行ってどうするの」と大声で泣いていたことです。

 私は終戦後、北大浦小学校に入学しましたが、その後、家族は祖母のいる中新町に引っ越しました。残った家族で身を寄せ合って協力して生きていこうということだったのでしょう。私は4年生の時に仁田小学校に転校しました。この中新町の家は3軒長屋のようになっていて、我が家の他は農家で、牛を飼っていました。母は、隣近所の農家で仕入れた野菜を家々に売ってまわるような商売を始めました。そのうち、私たちも母の仕事を手伝って、乾物などを売って歩いたりもしました。

 しかし急に始めた商売は厳しく、体の弱い母は、しょっちゅう寝込んでいました。朝食の支度などは子どもたちが早起きして、「くど」と呼ばれるかまどに薪をくべて火を焚き、ご飯やみそ汁などを作りましたが、子どもには火の加減が難しかったですね。しかし、子どもの頃から煮炊きをおぼえていたことで、女房を亡くして一人暮らしとなった今も、自分の食べたいものは肉じゃがでもなんでも自分で料理することができます。人間、一度身に付いたことを忘れることはありません。

今も思い出す1セント硬貨と母の言葉                

 そういえば、まだ異人部屋に住んでいる頃でしたが、戦争が終わるや否や、進駐軍が上陸してきました。家のある山の頂に「どんの山」と呼ばれる開けた場所があります。戦前は毎週土曜日の正午にそこで時報代わりに空砲を鳴らしており、その「どん」という音からそう呼ばれていました。そのどんの山に測候所(今でいう気象台)が設置されていました。米兵は列を作ってその測候所に向かって登っていました。うちの庭にもやってきました。眺めが良く、三菱造船所などもよく見えていたのです。私はその時初めて米兵を見ました。体が大きくて、恐怖にすくみあがりました。

 よく覚えているのは、1セント硬貨のことです。北大浦小学校の塀の上に、米兵がずらーっと腰かけていました。そしてその前を子どもが通ると、1セント硬貨を投げるのです。私は母から「あれを拾ったらダメ、拾えばあの人たちに連れていかれるよ」と厳しく言われていました。だからその1セントには気づいたものの、拾わず、黙って下を向いて前を足早に通り過ぎたという記憶があります。その時はもう親父はおらず、自分の身は自分で守る、という自覚が子ども心に芽生えていたのかもしれません。

 親父は生前、三菱長崎造船所で指物(さしもの)大工として客船の中で使う家具を作る仕事をしていました。だから手先が器用で、何でも自分で作っていました。戦後しばらくして私たちが中新町の長屋から移った田上(たがみ)の家も、実は父親が生前に作っていたものだというのを知りました。これはちゃんぽん屋をするための建物らしく、中2階で小部屋がたくさんありました。父が人に頼まれて作ったものの、発注者がお金を支払えず、結局作った父が買い取って、しばらく人に貸していたのだそうです。それがわかり、家族でこの田上の家に引っ越しました。父はもう死去していましたが、生前の仕事で私たちの生活を支えてくれたことになります。私はこの家から工業高校に通うことができました。

 卒業後は航空自衛隊に入隊しました。長崎は就職難でまともな仕事がなかなか見つからなかったこと、それに私一人おらんでもいいだろうということでの決断でした。自衛隊はすべて寮で、食べ物にも困らず、お金を使うこともありません。給料は6千円ほどでしたが、そのうち5千円を家に仕送りしていました。弟妹たちをまだ学校に行かせなければいけなかったからです。航空自衛隊では、技術学校のある浜松や三沢にも転勤になりましたが、どんどん北上して「ここまで来たら北海道まで行ってみよう」と稚内(わっかない)まで行き、そこで成人式を迎えました。

 母がずっと、年金がもらえるから公務員になりなさいと言っていたこともあり、結局長男譲治が郵便局、次男正(ただし)が市役所、私が自衛隊をやめた後、検察関係の国家公務員を勤めあげました。

自分から「被爆者」と名乗ることはなかった              

 最初に結婚した妻喜美子(きみこ)は被爆者です。同じ大浦中学校の同級生で、私が野球部、喜美子がバレー部で、お互い顔は知っていました。喜美子には51歳で先立たれ、その後結婚した2番目の妻小枝子(さえこ)も被爆者でした。小枝子は諏訪神社の近くで被爆したということです。私たちの年代はほとんどみんな被爆者だから、友達同士でもあえて被爆の話はしなかったように思います。そういうものです。人から「被爆者」と言われるのも好まなかったですね。女性は特に「被爆者と知られると結婚ができない」という噂もありました。私自身は、自分の結婚については相手が被爆者であろうとなかろうと、それほど気になることはなかったですね。

 勤めている間は、自分から被爆者であることを話すことはありませんでした。別に隠しているわけではないけれど、自分からしゃべることはありません。しかし、仕事を定年まで勤めあげてからは、この経験を人に話してもいいのではないか、と思い始めました。女房も2人とも亡くなり、もういいかな、と。この年齢まで特に大きな病気もせず生きて来ました。丈夫な体に産んで、懸命に育ててくれた母に報いるためにも。

平和への思い                           

 毎日、テレビのニュースでロシアのウクライナ侵攻の様子を見ています。テレビをつけると一日中やっています。ウクライナの戦争は早く収束してほしい。核兵器の問題も気になります。

 戦争を経験した人間として、私たちのような生活や経験は、これから生きていく人たちにさせたくない。戦争は、結局は殺し合いで、無駄なことなのです。戦後70数年を過ぎているのに、今も世界のあちこちで戦争の犠牲者が出ているのは悲しいことです。二度とこのようなことがあっては困る、心からそう思います。

 

(令和5年8月寄稿)