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小学校にグライダーがやってきた

ページ番号:0001015 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

荒木 登志男さん(諫早市高来町)

戦時中のこと。湯江小学校の運動場に人が乗るグライダーと人が回転する大きな車輪がやってきた。グライダーは大勢に引っ張られながら走り動いたし、また車輪は人がつかまったまま、ごろごろと転がされたのを間近で見た。

日も照り暖かい日の午後のこと。第一校舎東側にある宿直室前の校庭で、学生のような若者数人が、すえ置かれたグライダーの点検整備をしているのを近くに寄って眺めた。グライダーを見回すとトンボ型の飛行機で、羽根(主翼)の横幅は5メートル位、また胴体の長さは4メートル位と大きく、先頭には一人の運転手が両足をふんばって座り、一本の立て棒を前後左右に動かしていた。そのグライダーの骨組みは木製で、若者たちが手作りしたのか、先端は木がそり曲がって大きな雪ぞりの形になっていた。その周りにいる若者は薄茶色で布張り(または油紙張り?)の主翼を手でさわりながら調べたり、細木で組まれた胴体をくくったロープがゆるんでないか、切れてないかを動き回って点検していた。

湯江小学校の校庭でグライダーを点検する若者の画像
湯江小学校の校庭でグライダーを点検する若者

グライダーが運動場で動いた日は、曇天で北風もあり、少し寒かった。そのグライダーは運動場の東側の校門近くにすえ置かれていたが、先頭に結び付けられたロープは長く、運動場の半ばまであった。私自身、子どもだったので、今から何があるのか、わからずに運動場南側の棒登り台のそばにいて、おそるおそる場内を眺めていた。

しばらくすると学校周辺の大人も見物に寄ってこられた。運動場ではグライダー飛行機を動かす準備がされていたのか、一番前には一人の運転手が乗って座っていた。また、主翼の両わきには人が立って羽根の端を支え持つ若者の姿が見えた。前に引かれた一本のロープには、上級生の子どもが10人位と若者が付いて、ロープをにぎり持っているのも見えた。

その後、出発の合図があったのか、引きロープを持ったみんなが、「ワー」と大声をあげながら前にロープを引っ張って、運動場をななめ方向に走り出した。見る間に、グライダーは目の前を通り過ぎたので、運動場西の終点側になるころは人影で見えなかった。運動場をななめ縦断したグライダーは滑走距離が短かったので、どれくらい浮上したのか、見聞きはしていない。

この日は同時に、運動場南側で、人が回転する大きな鉄の車輪2台が動き転がるのを見せてもらった。車輪は直径が180センチメートル位の鉄の輪2本が組み合わさった大車輪で、その中央部には、一人の若者が大の字の形でつかまって回転する乗物だった。動くときは、その大車輪に若者の補助員一人が付いて、車の後側から押して、ごろごろと転がして前進させていた。しかし、車輪は大きかったので、子どもが乗るには身長が足りないので、つかまり転がることはできなかった。一方、車輪の中央で、大の字につかまっている若者は、横向きになったり、逆さまになったりして、転がされるので、戦闘機乗りになるためには平衡感覚の訓練にもなっていると聞いた。

湯江小学校の運動場で動かされるグライダーと回転する大車輪の画像
湯江小学校の運動場で動かされるグライダーと回転する大車輪

自分自身にとっては、初めて見る大きなグライダーは空を飛ぶ飛行機だとは知らなかったので、目の前で動き、走り回るのを見たときは、驚き圧倒された。のちには、飛行機にあこがれるきっかけとなりうれしかった。

さて、学生と思われる若者たちは、日本の戦闘機乗りを目ざすため、一生懸命にがんばって訓練をしている姿をみんなに見せてくれた。そのうえ、珍しい実物の空飛ぶグライダーを湯江小学校に持ち込んで、子どもたちに見せてくれたことは、今でも忘れられない。しかし、昭和20年8月の敗戦に伴い、世の中の激変で、若者たちの姿は聞くこともなかったので、今になっては、子ども時代の気になる感動体験にもなっている。

(令和4年10月寄稿)