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金物の供出

ページ番号:0001014 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

荒木 登志男さん(諫早市高来町)

戦時中のある日。父は家でいらなくなった金物はないかと物置小屋をさがしはじめたので、父につれられて外に出すのを手伝った。出てきた古道具は使われずになおし込まれていたので、ほこりをかぶった物ばかりだった。そのため小屋の中は片づいてすっきりとなった。一方、祖父母は物を大事にしていたのか、捨てるにはもったいない、何かに使えるだろうと奥深くなおし込んでいたようだ。

その片づけ作業を手伝っているとき、父が「隣組の小溝班長さんから『ふれ(伝達)』があったので、家中をさがし、使ってない金物を出さなければならない」また、「戦争で使う戦車や軍艦、飛行機を造るのに鉄がいる」と教えてくれた。それに伴い、母も炊事場で使っていない、ひび割れたナベやカマ、水もれのバケツなどを探し出していた。それから父は、外周りからトタン板や金網、こわれた金具類、放置していたジョロや雨ドイも寄せ集めた。特にわが家は子ども兄弟が多かったので、使い古し、こわれた船や飛行機、また船や人形などのブリキのおもちゃも遊ばないからと一緒に放り出した。

湯江小学校に入学したときは、教室の窓下に張り回された、雨除けの銅板までもはぎ取って出されていたのが目についた。このように金物の供出は、隣組班長さんの指示の「ふれ」から始まったが、出さないでいるとこわい憲兵が回ってきて調べるとのうわさ話も聞いた。

その後、わが家で探し出した不用な金物はリヤカーに積んで、父について湯江町役場の広場まで持って行った。広場の置き場には、さびたり、折れ曲ったり、したトタン板や針金、また物入れのブリキ缶、欠けた大釜や鉄びん、さらに農家から出されたのか、折れたクワやカマ、こわれた農具など、さまざまな金物が山積みされていた。

湯江町役場の広場に集められた金物類の画像
湯江町役場の広場に集められた金物類

さて、9月23日にあった老人会ゲートボール大会で、白寿会老人会の世話役の中原さんに金属の供出のことをおたずねすると、「金崎地区の光源寺からは釣り鐘が出された。出す日には宇良地区の門徒さん総出で、牛車に積み込み加勢し、お別れで見送った」さらに「宇良地区伝統の宇良浮立のたたき鉦(カネ)は内密に保管されていたのか、供出はまぬがれて今に残っている」とのこと。また「農機具は修繕しながら使ったので出す農家は少なかった」と聞いた。

牛車で供出される金崎地区の光源寺の釣り鐘の画像
牛車で供出される金崎地区の光源寺の釣り鐘

特に戦時中は国民総参加の戦争状態だったので、「勝つ」ためには、みんなが一生懸命だった。戦争に使う金属が不足していたので、お国のためには「もったいない」意識はなく、隣組みんなが、少しの金物でも出し合った。そのため、役場の広場に寄せられた山積みの金物は、軍隊が集めにきたと聞いた。

このように当時は、各家庭から不用な金物、金具類が出されたので、その代替品としては、ナベや飯ガマは陶器類に、また茶わん洗いやバケツは木製のおけ、ざるやカゴは竹製などに入れ替って世間広く出回ってきた。わが家にとっても、戦争のどさくさで古くて使っていない、いろりの古い茶釜やさびついた刀剣などのこっとう品、また馬や鳥の飾り物までも、古くさいからとか、今さら使うもんかとか言って出してしまったとのこと。

時代は変わり、価値観も変わった今は、わが家のお宝になるようなものは見当たらないので、戦争にふり回されて、もったいないことをしてしまったと思っている。

(令和4年10月寄稿)