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江戸時代

ページ番号:0001302 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

佐賀藩はもともと龍造寺氏の領国でしたが、慶長12(1607)年に鍋島勝茂を初代とする佐賀藩が成立します。諫早家は「御親類同格」の立場にあり、以後明治時代までの約260年間「佐賀藩諫早領」として藩政の一翼を担いました。当時の諫早領域は、多良見町の一部が大村藩に含まれていたことを除けば、ほぼ現在の諫早市と同範囲です。
本藩である佐賀藩は財政再建のため、慶長15(1610)年と元和7(1621)年の二度にわたり三部上地を実施し、当初の2万2千石は一万石余りにまで減少しました。また、佐賀代官所を置くなど政治的・経済的に諫早領に対する支配体制を強化していきます。本明川ではたびたび洪水が発生し、特に元禄12(1699)年の水害では多くの生命が奪われ、翌年は一転して大干ばつに見舞われました。これらの災害の犠牲者を追悼するため、7代領主茂晴公により富川に五百羅漢が刻まれました。このような状況下にあっても、諫早の人々の英知・高い技術力はいたるところで発揮されました。干拓による新田開発が盛んに行われ、山崎教清(川内町)・松本四郎左衛門(飯盛町)・陣野甚右衛門(森山町)などが多大な功績を残し、今日の農業の大きな礎となりました。また、天保10(1839)年に架橋された眼鏡橋は、永久に流れることのない橋を、との領民の悲願とアーチ式の石橋という高度な技術力とが結実して完成にいたりました。
江戸時代初期に確立した長崎街道は、長崎と小倉を結ぶ街道で長崎~多良見~諫早(永昌宿)~大村へとつながります。また、諫早を分岐点として高来(湯江宿)~小長井方面へは多良街道・竹崎海道が、森山方面へは島原街道がありました。諫早はこれらの陸路や海上航路が集中・通過する交通の要衝としての地理的条件を活かし、栄えてきました。

諫早領内大地図(諫早北)の画像
諫早領内大地図(諫早北).

領内部分図(諫早飯盛)の画像
領内部分図(諫早飯盛)

領内部分図(森山)の画像
領内部分図(森山)

領内南海岸図(小長井・高来)の画像
領内南海岸図(小長井・高来)

領内南海岸図(太良町内)の画像
領内南海岸図(太良町内)