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諫早市の歴史(概説:旧石器時代~江戸時代まで)
長崎県の中央に位置し、有明海・大村湾・橘湾という三つの海に面した諫早地域は交通の要衝として古くから文献に登場します。諫早の歴史はその地理的特性を活かし、陸や海を介した他地域との活発な交流の歴史であったといえるでしょう。ここでは、旧石器時代から江戸時代までの諫早の出来事について、紹介します。
旧石器時代~古墳時代
市内で最も古い時期の遺跡としては、大村湾南奥に位置する西輪久道遺跡(津久葉町)や鷹野遺跡、柿崎遺跡(貝津町)などがあります。これらは旧石器時代の遺跡で、約3万年前から約1万5,000年前のナイフ形石器文化の時期にあたります。
縄文時代は約1万年前に始まり、弓矢や土器の発明により狩猟や食糧の対象が拡大された時期です。川頭遺跡(湯野尾町)は標高360mほどの高所に位置し、縄文時代早期の住居跡2棟が発見され、山間部での生活の様子が明らかになりました。有喜貝塚(松里町)は橘湾を望む縄文時代中期から後期の貝塚で、大正14(1925)年、京都大学の浜田耕作博士によって発掘され、「長崎県考古学発祥の地」と言われています。伊木力遺跡(多良見町)は大村湾奥部にあり、約6,000年前の縄文時代前期を代表する県内でも有数の遺跡です。
弥生時代には大陸から稲作や金属器などの新しい文化の波が押し寄せ、従来の狩猟・採集社会から大きく飛躍し、食糧の生産が本格化します。新しい文化の一つとして支石墓という埋葬法がありますが、市内には風観岳支石墓群(破籠井町)や井崎支石墓(小長井町)があります。
古墳時代になると有明海沿岸、橘湾沿岸などで古墳が築造されます。善神さん古墳(高来町)、大峰古墳・長戸鬼塚古墳(小長井町)は横穴式石室をもつ古墳です。大峰古墳は石室に石棚が設けられる本県唯一の古墳です。
飛鳥・奈良・平安時代
大化の改新(645年)により国家のしくみは大きく変わり、天皇を中心とした政府が全国の土地と人民を直接支配することとなりました(公地公民制)。最大の事業は班田制の実施で、口分田の支給と租税徴収を容易にするために土地を碁盤目状に区画する条里制が行われ、その痕跡が、田井原条里遺跡(仲沖町・幸町)、小野条里遺跡(宗方・長野・川内町)、田結条里(飯盛町)などに残っています。奈良時代になり、律令政府は、中央と地方の連絡を緊密にするため、早馬を走らせる駅路とその乗り継ぎ機関である駅家を整備しました。『延喜式』によると、長崎県内には新分(彼杵郡)・船越・山田・野鳥(高来郡)の4駅があり、「船越」は船越町にあったと想定されています。
鎌倉時代~安土・桃山時代
鎌倉時代になると、大分県宇佐神宮に保管されている建久8(1197)年頃の作とされる『八幡宇佐宮御神領大鏡』という文書の中に「伊佐早村」が初めて登場します。藤井宮時という伊佐早村の本領主が、もともと公領であったこの地方を、平安時代の末期には宇佐神宮の荘園として寄進していたことが書かれています。
南北朝の争乱の時期になると荘園勢力は完全に消え去り、激しい領主交替が行われます。埋津川を境にして南側は宇木城を居城とする西郷氏が南朝方に、北側は船越城を居城とする伊佐早氏が北朝方について対立していました。明徳3(1392)年に南北朝合一がなされ、その後戦国時代初頭に西郷尚善が登場し、激しい戦国の世に終止符が打たれ、その後江戸時代が始まるまでの約100年間、西郷氏がこの地方を治めることになります。
西郷氏は文明6(1474)年頃に、高城を築き、さらに外敵の侵入を防ぐために沖城(仲沖町)、江城(森山町)、真崎城(真崎町)・古田城(高来町)などの支城を築きました。土木技術にも優れ、用水路整備・干拓・開墾などに取り組み、孫の純尭の頃には、島原の有馬氏、平戸の松浦氏・大村氏に方を並べる豪族となりました。その後、西郷信尚が天正15(1587)年の豊臣秀吉の島津攻略の命令に従わなかったため、秀吉は筑後柳河の龍造寺家晴に伊佐早領2万2千石の朱印状を与えました。家晴は西郷氏に高城の明渡しを迫りましたが、これに従わなかったので、家晴は高城を攻め、西郷氏は島原方面へ敗走しました。龍造寺氏はその後自らの姓を「諫早」と改め、時代は江戸時代へと移っていきます。
江戸時代
佐賀藩はもともと龍造寺氏の領国でしたが、慶長12(1607)年に鍋島勝茂を初代とする佐賀藩が成立します。諫早家は「御親類同格」の立場にあり、以後明治時代までの約260年間「佐賀藩諫早領」として藩政の一翼を担いました。当時の諫早領域は、多良見町の一部が大村藩に含まれていたことを除けば、ほぼ現在の諫早市と同範囲です。
本藩である佐賀藩は財政再建のため、慶長15(1610)年と元和7(1621)年の二度にわたり三部上地を実施し、当初の2万2千石は一万石余りにまで減少しました。また、佐賀代官所を置くなど政治的・経済的に諫早領に対する支配体制を強化していきます。本明川ではたびたび洪水が発生し、特に元禄12(1699)年の水害では多くの生命が奪われ、翌年は一転して大干ばつに見舞われました。これらの災害の犠牲者を追悼するため、7代領主茂晴公により富川に五百羅漢が刻まれました。このような状況下にあっても、諫早の人々の英知・高い技術力はいたるところで発揮されました。干拓による新田開発が盛んに行われ、山崎教清(川内町)・松本四郎左衛門(飯盛町)・陣野甚右衛門(森山町)などが多大な功績を残し、今日の農業の大きな礎となりました。また、天保10(1839)年に架橋された眼鏡橋は、永久に流れることのない橋を、との領民の悲願とアーチ式の石橋という高度な技術力とが結実して完成にいたりました。
江戸時代初期に確立した長崎街道は、長崎と小倉を結ぶ街道で長崎~多良見~諫早(永昌宿)~大村へとつながります。また、諫早を分岐点として高来(湯江宿)~小長井方面へは多良街道・竹崎海道が、森山方面へは島原街道がありました。諫早はこれらの陸路や海上航路が集中・通過する交通の要衝としての地理的条件を活かし、栄えてきました。