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肥前長崎の焼物(現川焼・亀山焼・長与焼・鵬ヶ崎焼・土師野尾焼)

ページ番号:0001264 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

肥前長崎の焼物のお皿の写真

よみがな

ひぜんながさきのやきもの(うつつがわやき・かめやまやき・ながよやき・ぼうがさきやき・はじのおやき)

指定区分

市指定文化財

指定年月日

平成19年2月1日

所在地

諫早市美術・歴史館にて展示中

交通

県営バス「体育館前」徒歩3分
島原鉄道「本諫早駅」徒歩10分

ここで紹介する資料は、本市出身で古陶磁研究家として著名であった故植村富士男氏が半生をかけて蒐集された現川焼146点、亀山焼62点、長与焼20点、鵬ヶ崎焼9点、土師野尾焼1点、計238点の焼物群です。
現川焼は、諫早家の焼物被官であった田中刑部左衛門によって元禄4(1691)年に開窯されたものです。閉窯については詳らかではありませんが、『日新記』によれば寛延の頃に閉窯したとみられます。瀟酒な器のなかに華麗な刷毛目文様が駆使された秀逸な資料です。
亀山焼は、長崎伊良林で大神甚五平らにより文化4(1807)年に開窯されたもので、呉須染付の発色の良い秀逸な資料を多く生産しています。また、蘇州の土を用いた蘇州土亀山は出色である。嘉永から安政頃には窯の経営が厳しくなり、長崎奉行の援助があったものの、慶応元(1865)年閉窯しました。
長与焼は、大村藩長与で浅井角左衛門らによって寛文7(1667)年に開窯されたものです。一時中絶しましたが、正徳2(1712)年波佐見稗木場から陶工を招いて再興し、文化3(1820)年まで操業しました。三彩手の製品は特に見事な作品です。
鵬ヶ崎焼は、蒲池子明により文政6(1823)年に長崎の稲佐山麓に開窯されたもので、白象嵌や色釉の盛上げ文様など独自性を持っています。文房具類や煎茶道具などの小品が多く生産され、嘉永5(1852)年まで続きました。
土師野尾焼は、市内の土師野尾町に所在する二基の窯で焼かれたものです。慶長3(1598)年、初代領主竜造寺家晴が帯同した陶工により開窯されたものと伝えられていましたが、昭和59(1984)年の発掘調査によって、西郷氏時代の窯であることが判明しました、最古期の唐津焼の一群をなすもので、伝世品は稀有な資料です。

※「出色」(しゅっしょく)・・・際立って優れて見える様子

葉っぱが描かれている現川焼のお皿の写真
現川焼(うつつがわやき)

青く全体に絵が描かれている亀山焼のお皿の写真
亀山焼(かめやまやき)

土師野尾焼でできている茶色いツボの写真
土師野尾焼(はじのおやき)

茶色のお皿に絵が描かれている鵬ヶ崎焼の写真
鵬ヶ崎焼(ぼうがさきやき)

緑・白・黄色・黒で鮮やかに塗られている長与焼のお椀の写真
鮮やかに色づけされている長与焼の写真
長与焼(ながよやき)