本文
慶巌寺の磨崖仏三十三観音
よみがな
けいがんじのまがいぶつさんじゅうさんかんのん
指定区分
市指定有形民俗文化財
指定年月日
昭和59年7月26日
所在地
諫早市城見町121
交通
県営バス「城見町」 徒歩3分
寺域南端の第三紀砂岩の岩肌に、西を起点として33体の菩薩像が整然と彫刻されています。
彫刻にあたっては光背型にえぐり込み、中に観音像を半高肉彫りで陽刻しています。法量は高さ40cm、幅25~30cmほど。その右下には高さ25~29cm、幅7~10cmほどの長方形の彫り込み部を設け「西国三十三所八番」というように番号を陰刻しています。
造像は丁寧であり、仕上げも良好です。
崖面中位には、明和7(1770)年2月、福田源太夫の母が寄進したものと記銘されています。福田姓については『座居帳』(万延2年、文久元年ニ改)に「役ノ間獨礼 主計与 福田七郎」との記載があります。福田七郎は福田渭水のことであり、渭水の祖父が源太夫です。
造立の縁起については、今一つ明確ではありませんが、『観音経』に説くように、観音菩薩が33に変化し衆生を救済するという三十三観音思想と、庶民の救いを求める願望が合致して成立したものと思われます。
西国三十三観音は、畿内を中心にしてその周辺一帯に散在する三十三カ所の観音霊場のことを言います。古くは京都周辺の貴族、富豪の巡拝が主でありましたが、江戸時代に入ると関東・東北地方にまで巡拝塔が存在することから、かなり普遍的に庶民層まで行きわたった風習と思われます。そして、西国巡礼をより簡単に済ます目的、あるいは巡礼供養の目的から各地に三十三カ所観音を造像するようになったと思われます。本例もこのような推移のもとに作られたと考えらます。