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まずは諫早のまん中を歩く
諫早という地名が初めて文書に登場するのは鎌倉時代。諫早がまだ「伊佐早」だった戦国時代、西郷尚善によって統一されたこの地は、約百年にわたって西郷氏によって治められました。
しかし天正15(1587)年、4代目・信尚が豊臣秀吉の島津攻略の命令に背いたことで状況は一変。信尚は秀吉の怒りを買い、柳川を治めていた龍造寺家晴によって城を攻められ、敗走を余儀なくされました。
その後、龍造寺氏は姓を「諫早」に、また土地の名も「伊佐早」から「諫早」へと改めました。江戸時代になると、佐賀藩諫早領となり、佐賀藩の支配下に置かれますが、諫早の地は明治維新まで諫早家によって守られました。
「諫早公園」には、かつて西郷尚善が築いた高城と呼ばれる山城がありました。公園内には本丸跡や空堀などが残っており、今でも当時の面影が見られます。周囲には眼鏡橋や諫早出身の作家の文学碑など見どころが多く、諫早の魅力を肌で感じることができます。
永久不壊の石橋・重要文化財 諫早眼鏡橋
天保10(1839)年に当時の領主・領民が、永久不壊の願いを込めて本明川に架けた石造りの橋で、諫早大水害後に諫早公園内に移設されました。日本最大級の二連アーチ橋で、石橋では日本で最初に国の重要文化財に指定されています。また日本で一番美しい石橋といわれています。
諫早公園の大クス
かつて山城があった山の頂まで約150段の石段を上れば、樹齢600年の大クスがお出迎え。夏は木陰が涼しく、訪れた人を癒してくれます。
本明川
諫早市の中心部を流れる本明川は、日本一小さくて、短い一級河川です。急流のため、幾度も氾濫を起こしましたが、市のシンボル「母なる川」として市民に親しまれています。
飛び石
本明川には、昔から川面に飛び石が2ヶ所設置され、本明川を渡る唯一の通路として利用されていました。
諫早大水害で流失したものの、地元自治会の強い要望もあり昭和63年3月、旧眼鏡橋の形をイメージして復元されました。現在、飛び石は7ヶ所に設置されています。