鎌倉時代になると、大分県宇佐神宮に保管されている建久8(1197)年頃の作とされる『八幡宇佐宮御神領大鏡』という文書の中に「伊佐早村」が初めて登場します。藤井宮時という伊佐早村の本領主が、もともと公領であったこの地方を、平安時代の末期には宇佐神宮の荘園として寄進していたことが書かれています。
南北朝の争乱の時期になると荘園勢力は完全に消え去り、激しい領主交替が行われます。埋津川を境にして南側は宇木城を居城とする西郷氏が南朝方に、北側は船越城を居城とする伊佐早氏が北朝方について対立していました。明徳3(1392)年に南北朝合一がなされ、その後戦国時代初頭に西郷尚善が登場し、激しい戦国の世に終止符が打たれ、その後江戸時代 が始まるまでの約100年間、西郷氏がこの地方を治めることになります。
西郷氏は文明6(1474)年頃に、高城を築き、さらに外敵の侵入を防ぐために沖城(仲沖町)、江城(森山町)、真崎城(真崎町)・古田城(高来町)などの支城を築きました。土木技術にも優れ、用水路整備・干拓・開墾などに取り組み、孫の純尭の頃には、島原の有馬氏、平戸の松浦氏・大村氏に方を並べる豪族となりました。その後、西郷信尚が天正15(1587)年の豊臣秀吉の島津攻略の命令に従わなかったため、秀吉は筑後柳河の龍造寺家晴に伊佐早領2万2千石の朱印状を与えました。家晴は西郷氏に高城の明渡しを迫りましたが、これに従わなかったので、家晴は高城を攻め、西郷氏は島原方面へ敗走しました。龍造寺氏はその後自らの姓を「諫早」と改め、時代は江戸時代へと移っていきます。

鎌倉時代の笠塔婆形式塔(称念寺所蔵)

鎌倉時代の笠塔婆形式塔(称念寺所蔵)

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