子どもたちへの伝言

~戦争と原爆についての体験~ 馬場守久さん(諫早市森山町)の被爆者の救護活動

私は大正14年2月4日に生まれ、昭和6年に小学校に入りました。当時森山西小学校は鳥島小学校といっていました。尋常科と高等科があって、尋常科は6年、高等科は2年でした。
私が小学校に入学した年に満洲事変が起こりました。それからだんだん戦時色が濃くなっていきました。
当時水も水道ではなく、燃料もガスなどはない時代でした。水も井戸のある家はよい方で、井戸からツルベで水をくみ、水瓶に水をため、井戸のない家は、「飲み川」という出水のみずたまりから、水を運んで使っていました。風呂に水を運んで入れるのも、風呂を沸かすのも子どもの仕事でした。森山に水道ができたのも、道路の舗装がはじまったのも昭和44年ごろからです。
農作業も人力が主体でしたので、田植えのときや稲刈りのときは、「農繁休暇」といって、何日も学校は休みで、農作業の手伝いをしていました。電灯のない家はランプでしたから、ランプのホヤ磨きも子どもの仕事でした。
昭和12年に長崎県立諫早中学校に入学しました。この年に日中戦争が始まりました。戦争が始まりますと、元気な若者は軍隊に召集され、戦地に行くわけですから働き手がなくなります。それをカバーするために、生徒たちは、「勤労奉仕」といって、戦争に行った兵隊さんの家の稲刈りや、麦刈りの手伝いに、勉強は休んで学校から行きました。自動車がない頃でしたので、行きも帰りもひたすら歩きました。
また、戦争をするためにはたくさんのお金や物資が必要です。お寺の梵鐘や橋の欄干まで供出させられました。その影響で国民生活は不自由になり、ついに生活物資は統制され、配給ということになりました。
中学生になると教練という学科があり、陸軍の将校が配属になり、軍隊教育を週2時間くらいしておりました。また、武道があり、柔道か剣道どちらかを選択しなければなりませんでした。
中学校5年のうち、3年半を自転車で通いました。
中学5年のとき、太平洋戦争が始まりました。さらにたくさんの人手と物資が必要になりました。私たち5年生は、大学進学組を残して卒業見込ということで、戦争関連の職場に散っていきました。同級生の中には、海軍軍属で南方に行った人もおりました。
私は、華北交通という会社に就職することになり、中国に行きました。門司から黒龍丸という貨客船(6千トンくらい)に乗り、中等学校卒業見込の内地採用者の集団赴任となったわけであります。大連上陸と同時に任地が発表されました。太原鉄路局行きが決まりました。
太原鉄路局に行きますと、太原機務段配属が決まっていました。機務段というところは蒸気機関車の仕事をするところです。職種は乗務関係であっても、いきなり機関車に乗れるわけではありません。半日は運転規定や機関車の構造についての教育、半日は機関車掃除という生活が3ヵ月続き、司炉試験に合格、学習司炉になり、いわゆる釜焚きの見習として乗務することになりました。
蒸気機関車の燃料は石炭ですが、学校で教わった「燃焼とは熱と光を出して酸化する現象をいう」という言葉を思い出しました。物を燃やすときには空気(酸素)を十分供給しないとよく燃えないということですね。
ここで線路の中のことを少し考えてみましょう。JRの在来線の線路の中は1,067mmです。新幹線の線路の中は1,435mmで、これを準軌といって世界の標準軌条にしております。鮮鉄、満鉄、華北、華中(※それぞれ、朝鮮総督府鉄道局、南満洲鉄道、華北交通、華中鉄道の略称。いずれも日本が設立した鉄道会社。)のほとんどの線路はこの準軌でした。
ただ私たちの受け持ちの区間を含めて400kmぐらい、1,000mmというところがありました。ロシアの線路の中は1,520mmあるそうです。そうなると広軌になるわけですね。
また、レールの規格は、1mmの重さで呼びます。60kg軌条とか45km軌条となるわけです。
昭和19年の夏、機関士の試験を受け、9月16日付で学習司機員の辞令が出ました。機関士の見習になったわけです。そのころ内地では学童疎開が始まっていたのです。疎開とは、アメリカ軍の飛行機の爆撃の心配のある都会の小学校の児童を、爆撃の心配のない田舎に避難させることです。子どもたちは親元を離れて、旅館や集会所、お寺などで不自由な生活を強いられました。
また、中学校、高等女学校などの生徒たちは、勉強をやめて軍需工場に動員され、軍艦や飛行機や鉄砲などの部品作りをやらされました。
19年の暮れ、現役入営の電報を受取り、20年1月4日に太原を出発し、1月10日の朝、諫早駅に着きました。
それから家の農業を手伝いながら入営の日を待っていました。途中いろいろ行き違いがあったようで、最終的には20年9月10日に千葉県津田沼の鉄道連隊に入隊するよう命令書が来ました。
8月9日は、いつものとおり、家から150mぐらい離れた田んぼに行って、父と2人、草を取っていました。
昼近くなって、雲ひとつない青空をB29重爆撃機が2機、白い機体をキラキラさせながら、東の方から長崎の方へ飛んでいきました。しばらくして大きな爆発音がしました。私たちは「上井牟田に爆弾が落ちたのでは」と話し合いました。それほど大きく聞こえました。それが11時2分だったのです。まもなく、長崎の上空で白い雲がもくもく渦を巻いて大きくなっていきました。太陽の光で雲の中は薄いピンク色をしておりました。それが原子雲だったのですね。
夕方4時すぎだったでしょうか。真黒い煙が北東の方へ、空が暗くなるほど流れていきました。原爆による長崎の大火災の煙だったのです。
2日目の午後、役場から使いが来て、「長崎に救援に行ってもらうので、握り飯の用意をして、今夜、森山駅前に集まれ」ということでした。召集を受け、私たちは森山駅前に集合し、中村浅ヱ門さん(故人)、草野順作さん(故人)などの引率で、歩いて長崎へ行きました。途中、いたるところで長崎から逃げてくる被爆者に会いました。古賀の松原付近で、白々と夜が明けてきました。日見トンネルをすぎると、道路脇に軍鶏籠が出してありました。眠りながら歩いていた誰かがその籠に乗りかかりました。勝山小学校の近くまで行ったとき、米軍のロッキードP38が双胴の機体をキラキラさせながら飛んできました。市役所に着くと、浦上方面に行くことになりました。長崎駅前を過ぎたころ、ガスタンクの近くで、馬車を引いたまま馬が倒れ、腹が破裂せんばかりに膨れていました。
目的地に着き、長崎市立商業学校を本拠地にして、山の中の防空壕などを探してまわりました。小川の堰のところに、水を飲みにいったのか、うつぶせになった少女の死体がありました。防空壕のなかにも逃げこんでから亡くなったのか、いたるところに死体がありました。生きているけど動けない人は、わらむしろの担架で学校近くのテントのところに運びました。その人たちからは、警察官が住所、氏名、生年月日などを聞いてメモをしておりました。亡くなった人の遺体は、学校の下の広場に運び、倒壊した建物の材木を敷いてその上に並べて火葬しました。死体にはうじがわき、動かすときにあごの下から両手一杯くらい落ちたのもありました。
平釜で玄米を炊いて、商業高校の校舎の日陰で昼食をいただきました。風が吹くと死体を焼く煙が来るので、食事どころではないと顔面蒼白になり、うずくまっている人が2人いました。
その日の作業を終え、引き揚げる途中、爆心地近くでは、木材は燃えてしまい、鉄の台枠だけになった電車の上に白骨が折重なっていました。電車のそばには電車の窓ガラスが一握りの紫色のかたまりになって落ちていました。
市役所に着いたら、もう1日加勢をしてもらうように言われましたが、みんなで話し合い、召集のとき「1日だけ」と言われたこと、従って、みんな自分の家には「1日応援に行ってくる」と言って出てきたので家族が心配するということを、長崎市役所も了解され、日本酒を湯呑み一杯ずつごちそうになり、長崎駅から汽車で帰りました。みんな疲れて汽車の中で眠りこんでいました。そのとき着ていった服の死体を焼いた匂いは、3ヵ月くらい消えませんでした。
日本は、戦後から今日まで戦争をせず平和が続いております。病気や怪我をしなければ、健康のありがたさがわからないように、戦争の苦しさ、みじめさを味わったものでなければ平和のありがたさは、わからないものかもしれません。

(平成22年8月寄稿)

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