子どもたちへの伝言

~家族の思い出~ 千葉憲哉さん(諫早市貝津町)

―74回目の長崎原爆の日に思う。

8月9日、長崎は原爆記念日です。これまで多くの被爆者がお亡くなりになり、死没者名簿に記載されました。次第に被爆者の方が少なくなっています。核廃絶の声は被爆2世が立ち上がらねばならないことになりつつあります。

実はわたくしは被爆2世です。この年令(72才)になっても、原爆記念日の11時2分の鎮魂の鐘の音を聞くのは嫌いです。

思い出したくない「家族の思い出」があるからです。

私の母は74年前、原爆落下中心点から2キロ弱の西浦上の自宅(長崎市家野町)で、ミシンを踏んでいました。母は当時25歳でした。8月9日11時2分、突然の光と強烈な音に思わず、後ろを振り向き、同時に、強烈な熱線が降り注ぎました。思わず、手で顔を覆い、左手の指が左の眼に刺さり込み、失明、顔が変形しました。同時に建物が一挙に崩壊、下敷きになり、母の体中に窓ガラス片が多数、突き刺さりました。運よく即死はしませんでしたが、そばで遊んでいた、まだ2歳半の私の兄は行方不明となり、探し出せませんでした。母は無我夢中で、見えない目で地面を這うように体を引きずりながら、田んぼの水を飲みながら、0.5キロ離れた父の実家に助けを求めたのです。

浦上ではその後も悲劇は長く続きました。私はその1年半後、長崎で被爆2世として生まれました。少年時代は、周囲には、まだ被爆の残骸が残っていました。近所には原爆の被爆者がたくさん住んでおられ、皮膚は“ケロイド”と言って重傷のやけどで皮膚がただれたり、手や顔は癒着したり、変形したりし、全身に熱傷の痕を持つ人達でした。原爆の被爆を受けた方々がたくさんまわりで生きておられましたが、原爆症で徐々にいつのまにか亡くなられていきました。長崎の中心部に住んでいる人からさえも浦上の人は被爆者だからと差別され、交際を避けられ、結婚も就職もできない人がたくさんおられました。そのような社会的、経済的、肉体的苦悩を持つ人が、人生に失望し、私の家の前を走る長崎本線に飛び込み自殺することが頻繁に起こり、それが当時の普通の風景でした。

57年前頃までは、自宅の前の三菱兵器工場跡(現在の長崎大学本部)にはまだ、原爆で破壊された、建物跡がたくさん残っていました。その後、急速に復興が進み、遺構を隠すように、原爆被害の建物は取り除かれていきました。浦上天主堂も跡形もなく取り壊されました。広島と比べて、被爆遺構が長崎に少ないのは残念です。なぜでしょう?

私の中学の卒業式に“変形した左顔面に片目”の母は付いてきてくれました。その時、母は私に「ごめんね!こんな顔でついてきて」と言いました。「どうしてそんなに言うと?来てくれてうれしかとに!」と私は言いました。卒業式について来てくれた母に感謝こそすれ、謝られることはありませんでした。卒業記念写真には母が失明し変形した左の顔を隠して写っていました。母はその後、乳癌になり、私が18歳の時、突然なくなりました。43歳でした。遺体にはまだ多数のガラス片が残っておりました。被爆と癌との医学的関係を調べるための米国の原爆調査機関ABCCが遺体解剖を薦めましたが、私達、家族は拒否しました。原爆を投下した米国の機関から解剖されるのは屈辱と考えたからです。その後、私の家族は原爆について、戦争について一切語りませんでした。

今日の話は死亡する前に母が少しだけ、語ってくれた「家族の思い出」です。

2度とこんな悲劇を地上で繰り返してはなりません。

今は、戦争も原爆も知らない世代ばかりです。被爆経験のない人は“被爆による差別”さえも他人事です。怖さと悲劇をすべて消し去っているのです。世界の情勢は軍縮どころか核兵器開発競争へと進んでいます。経験から学ぶ大切さを忘れてはいけません。この悲劇を繰り返さないために、核兵器廃絶を訴えるとともに、平和な世界が続くように、皆さん!行動を起こしましょう。

(令和元年10月寄稿)

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