子どもたちへの伝言

~私の戦争体験~大迫國雄さん(諫早市土師野尾町)の戦争体験

昭和二十年、私は、大村第二十一海軍航空廠発動機部に所属しておりましたが、大村の工場が空襲に遭い、諫早公園近くの仮設の工場で働いておりました。工場の稼働が不十分であっため、防空壕堀りが主でした。
八月一日から十日間の予定で、長崎三菱兵器工場の防空壕掘りに当時の住吉町に通っておりました。午前六時二十五分諫早駅発の汽車で道の尾駅まで行きました。その当時の道の尾駅は敷地が広く、動物などもたくさんいました。歩いて住吉町まで行く途中、六地蔵がありました。朝行く時は、花は綺麗にしておりましたが、暑さのせいで帰りには枯れておりました。行きも帰りにも頭を下げて参拝しておりました。
六日の八時過ぎ、広島に爆弾の投下があり全滅との放送がありました。
私の部落の先輩、横町才吉、三歳下の中島輝喜と、ひょっこり会い、横町君は夜勤明けで中島君は日勤だったそうです。明日からの住吉町トンネル掘りは中止となり、七日からは諫早工場で働いておりました。空襲がひどい故、諫早公園に南北向きに防空壕を四交替で掘っておりました。
八月九日、私は当番にて出ておりました。十時三十分までで次の人と替り、汗で身体が汚れておりましたので、風呂に入り、洗って休んでおりましたところ、十一時前位に「空襲警報退避」と放送がありました。私と友達の二人はそのまま工場におりましたところ、「ピカツドン」と音がして、窓ガラスが割れ破片が私の眉間に当たり、ささりました。出血がひどいので脱脂綿で出血を止めて防空壕に行きましたところ、皆がびっくりしておりました。そして、退避解除になりましたので、組長が近くの病院に連れて行ってくれました。一緒にいたもう一人の友達は右の顔面を十センチ位の傷がありました。先生が私に「運が良かったね、急所を外れていたから大丈夫、もう少し下だったら失明するところだった」と言われて、治療して下さいました。
午後三時三十分頃、先生が「もう大丈夫」と言われて、当時の中学校運動場を通って帰りました。その中学校は、今の諫早高等学校で、校舎の前に「まきの木」が植えてありました。その前にむしろをいっぱい敷いておられたので、私が何事か聞いたところ、長崎に爆弾を落され怪我した人が来ると言われておりました。四時過ぎには怪我人を乗せた貨物トラックが来ました。血だらけで痛い、痛いと言っておりました。可哀相だと思いました。
午後五時頃、組長集合と放送され、集合場所は私達の工場の前でしたので、その様子が見えました。長い話しではなく、組長が帰って来られ、長崎が全滅だそうだと言われて、各組から三名ずつ長崎の救援に行ってほしいとのことでした。その時、組長が「大迫君も行ってくれ」と言われたので「はい」と返事しました。
十日の午前七時三十分諫早駅前集合となり、その日は帰りました。

長崎救援出張

十日、作業着を持って出発し、諫早駅前には、集合時間前に着きました。大体五十~六十名でだったと思います。隊長は、海軍大尉川崎と言う名前でした。私の組長も一緒でした。名前は角田(つのだ)伍長でした。汽車は旅客車ではなく貨物車で四両編成車であり、七時五十分に乗車しました。
八時に出発し、長崎に向かいました。喜々津駅を過ぎてからまもなく、二人乗りの飛行機に攻撃を受け、退避しました。飛行機が大村方面に行ったので、再度、汽車は出発しました。大草駅でもみかん畑に退避し、再出発しました。さらに長与駅近くで飛行機二機が十分くらい旋回しており、山の中やみかん畑、木の下等に退避しておりました。解除になり再出発し、道の尾駅に着いたのは十時頃だったと思います。駅付近は、家は壊れ、人は倒れ、あっちこっちで瓦礫がごろごろしておりました。道の尾駅で降りたところ、駅舎は怪我人で通れず、ホームを通って駅から出ました。駅前に集合して、長崎の救護員に色々説明を受けました。宿泊所は道の尾駅の裏側にある池田鉄工所という大きな工場でした。行って見たところ、工場の屋根はなくなっておりました。各自、自分の着替を工場に置いて、出発前に、幸町工場行き、大橋工場行きの二班に分かれ、私は三菱兵器製作所大橋工場行きでした。当時は、線路と道路は平行になっておりまして、道の尾駅裏側が線路、南側の方が四メートル位の道路でした。
道路を歩いて行く途中、右手側は焼け野原で、電柱は立ったまま燃えていました。また、六地蔵がありましたが、三日前見た時とは変わり果てており、倒れた地蔵の頭は無くなったりしておりました。道の尾駅から大橋工場へ向かう途中、住吉町付近の防空壕の中で、何人もの死体がありました。その住吉町付近を通過し、右に行けば大橋町、左へ行けば住吉町の商店街という三叉路のところに、うつ伏せで一人倒れておりました。側に郵便配達用の自動車が転っていました。その人を救護しようと友達が言いましたが、引率の方が、「民間人の救援は後でよい、軍関係の人を先に救援に来たのだから」と言われたので私達は従いました。後で聞いたところ、谷口稜曄(すみてる)さんでした。
兵器工場に着いたのは、十一時ごろだと思います。すぐ救援にかかりました。兵器物品庫で十七名救援しましたが、全部死んでおりました。一か所に集めて長崎の救護員に連絡しました。
三時過ぎに終ったので、係員に相談したところ、浦上川を探してくれと言われたので、三名一組で見て廻っておりました。そこで二人見つけ、引き揚げようと仲間二人で腕をにぎって引張ったところ、腕の皮がむけて骨が見えたので止め、救護員に連絡しました。その後、城山小学校を見てくれと言われたので、五~六名で探しておりましたところ、小さな防空壕の中の一番奥に小学生を見つけ、外に出してみました。一人が死亡、一人は呼吸がありましたので、救護所に運びました。
これで一日が終り、宿舎に帰り、風呂に入る準備をしました。風呂は二か所に準備してありましたが、これに五十~六十名が入るのでは汚いということで、ドラム缶の上部を切り取って、風呂を六個作って入りました。
朝六時三十分に起きて、洗顔し、七時に弁当が来たので食べ、八時三十分に宿を出て、現場に行きました。三十五分くらいかかったと思います。現場に行って、担当者から作業内容の説明を受けました。当時は各家庭で防空壕を作っておりましたので、防空壕をまわり、救護する作業でした。
三時過ぎ山里小学校裏の方で板類を集め積み上げておりましたので、何をするんですかと聞いたところ、五人の死体があるので焼くと言われました。私達も応援しますと言ったところ、両手を合わせて拝まれました。高さ一メートル幅四メートル位と思います。女の子二人、男の子一人、大人二人でした。女の子には化粧させて、男の子には着物を着せておられました。板の上に畳を敷いておられましたので、私がその時、畳は駄目だと申しました。何故かと問われたので、火が通りませんので、むしろを敷いて下さいと答えました。むしろを二枚敷いて死体を五人並べられました。点火は何時かと聞きましたところ、夜十時過ぎにしますと言われました。その時は四時過ぎでしたので、私達は帰るといいました。明日の午前九時頃、拾骨に来て下さいと言われたので、引き受けて帰りました。
十二日の朝に行ったところ、まだ焼けておりませんでしたので、また準備をして焼きました。十一時頃終りましたが、拾骨したものを入れるものがありませんでした。その時、思い浮かんだのが「そうめん」箱でした。箱を用意して納骨しました。私達の少年時代は、そうめんをよく食べました。入れ物は二斤箱、五斤箱、十斤箱で木の箱でした。納骨が終ったので、長崎大学の横を通って行くと、鳥居がありましたが、片方一本でした。その側に柿がいっぱいなっておりましたので、取って食べようと言ったところ、駄目だと言われました。その後、山の中を通って、川平町へ行きました。そこに事務所があり、三名を救護しておりましたところ、弁当が来たので食べて休んでおりました。
三時に、道の尾駅に集合するようにとのことでしたので、昭和町を通って住吉町に出て、駅に帰りました。その時民家はありましたが、全てがらくたになっておりました。道は「バラス」道でした。私の靴底はいつのまにか溶けていました。各自着替えて、三時三十分発の汽車で帰諫する時、私は足の裏が痛くて、駅にあった藁草履を履いて帰りました。
四時三十分、諫早駅に着きましたが、私は足の裏が痛くて、歩く事が出来なくなっておりました。汽車を降りることができなかったので、組長が肩車して駅に降ろしていただきました。その時、今の総合病院付近が海軍病院でしたので、「リヤカー」に乗せてもらって病院に行きました。火傷しておりましたので、冷水にて冷やしておりました。午後七時三十分頃「リヤカー」で工場に帰り、家に帰る時は、工場の友達二人に「リヤカー」で送ってもらいました。家でも一晩中冷やしました。朝はだいぶん良くなりました。工場を出る時、大迫君は、明日は休んでよいと言われましたが、昼頃調子が良かったので出勤しました。作業している時、組長集合の放送があり、明日、十四日に三菱電機に救護に行くようにとのことでしたので、私も参加しました。

長崎三菱電機工場片付け出張

体の調子が良ければ、十四日、十五日の二日間、飽の浦三菱電機工場片付けに行くとのことでした。その時は、二十名くらいの人がいたと思っています。二台のトラックの荷台にシートを敷いて行きました。
その道中は、今の国道はなく、公園から山下淵、今の魚荘の下、諫早神社の裏を通り、諫早駅の手前で線路の下をくぐり、御館山方面に行きました。そして、小船越県道を通り、小船越から長崎本線の踏切を通って、大川を渡りました。その当時、その橋は石橋でした。今の西諫早病院の東側にある鉄橋が、この石橋です。西諫早病院の南側にあるのが旧街道でした。真津山小学校の下を通り、久山に出ました。道路は線路の南側でした。久山に入り、線路の踏切を渡り、今度は北側を通って喜々津の手前で左折しました。そして、今の和仁会下を通り、矢上町馬場と言う所でまた石橋を渡り、矢上の商店街を通り、旧街道を通って、田中町に入りました。
その後、網場に出て、今の水族館の近くの網場川の側を通って、芒塚に出ました。そこはその当時、七曲がりの道路でした。日見トンネルを通り、本河内町を通って蛍茶屋と言う所に出ましたが、あまり壊れた家は無い様でした。諏訪神社の下を通って旧街道を通り長崎駅前に出て、稲佐橋に行きました。当時は石橋でしたが、大木がひっかかり通れませんでした。大波止に出て小曽根町から三菱造船所行きの船で三菱電機工場に着きましたが、工場は壊れており、大変なことになっておりました。着いたのは十時過ぎだったと思います。
作業を始めたところ、すぐに空襲警報が鳴り、退避しました。米機「グラマン」が二機、旋回しながら、浦上方面に行ったり来たりしておりました。十時四十分頃、解除になり、作業を再開しました。十二時に、諫早工場から持って来た弁当を食べました。食べて休んでいると、再び空襲警報があり、退避しました。三十分くらい上空を二機で浦上方面に行ったり来たりしてました。解除になり、作業を再開しました。その後は大丈夫でした。四時三十分、作業止めと言われたので、四~五名の班に分かれて、近くの民家に泊りました。風呂に入り、食事しました。その時、電灯は無く、ランプでした。夜九時過ぎに空襲警報が鳴りました。
十五日は朝早く起き、七時に食事、八時から作業開始でした。十時頃、空襲警報があり、退避しました。グラマンが二機で長崎港上空を飛び廻っておりました。二十分位でしたが、怖くて隠れておりました。浦上方面に行きましたので、ほっとしました。
ちょうど十一時五十五分からラジオ放送があり、天皇陛下が敗戦と言われましたので、お互いがっくりしました。昼になり食事をし、休んでおりましたところ、隊長の挨拶で戦争は終わったと言われ、帰ることになりました。トラック二台に分乗して帰ることになりました。本河内、日見トンネルを通り、七曲道路を通り網場に出て帰りました。
途中、喜々津阿蘇神社付近でアメリカ人の二人乗りジープ三台と会い、停車を命じられ止まりました。私達は、トラックにシートを敷いて休んでおりましたが、全員降車し、身体検査を受けました。しかし、何も持っていなかったので行ってよしと言われました。アメリカ人が煙草二箱、チョコレート三箱、乾パン等をくれました。諫早公園に着いたのが四時三十分頃でした。アメリカ人から貰った物を分配してもらい、食べておりましたところ、隊長が事務所に入り、すぐ出てきて、今日の人員は、明日十六日、広島に行くので、明日、朝七時二十分諫早駅集合と言われ、解散しました。

広島応援出張

十六日、諫早駅を朝七時十分に出発しました。その時も貨物列車でした。広島に着いたのは次の日だったと思います。広島駅も崩壊してメチャクチャでしたが、ホームは大丈夫でした。降車して駅前に集合し、人員割りがあり、五名の班になりました。その時の任務は、私達は軍関係でしたので、戦争は終わったと知っていましたが、一般人は知らないので、終戦を知らない人に教えることでした。住民は山に逃げていると聞き、山の方に行きました。一時間ばかり山の方に行きましたところ、民家がありました。私達が近くに行くとあちこちに逃げて行くので、もう戦争は終わったとマイクで放送しておりました。そのうち、年老いた男が出てこられ、もう戦争は終わったと言ったら号泣されました。自治会長さんでした。近所の人を呼んで、だんだんと人が集まって来られました。この人達は私達を助けに来て下さったと言われて喜んでおられました。
その周辺の民家は農家ですので、スイカ、うり、きゅうり、など色々私達に下さいました。そこで一緒に食べている時、アメリカ人がジープに乗って来て、銃を構えました。私達はこの人達を助けに来たと言ったら、アメリカ人も安心して、一緒にスイカ、うり等を食べました。
そのアメリカ人は「オイシイ」と言って、代わりに煙草、チョコレート、乾パン等をくれました。帰りにはジープに乗せて貰い、「ドーム」の側に来たところで、電車が三台焼けており、道を阻んでおりました。
この電車を二十人位で押して見ましたが、動きませんでした。そこで、大きなハンマーがありましたので、ハンマーで車輪を叩いたところ、どうにか動きました。三台とも押して動かし、道を確保しました。その時、アメリカ人が「アリガトウ」と言ってくれました。その時、アメリカ人は良い人だと言って話をしました。その日は近くの民家に泊めてもらいました。
ドームの前は海でした。救護隊が首までつかって、足で探しておられました。私達はどうすることも出来ませんでした。一時間程したら水が引き、土が見えてきて、たくさん人が死んでおりました。三十名くらいだったと思います。全員焼けただれて死んでおりました。引き揚げて水洗し、現地の人に渡しました。二時過ぎに、諫早応援隊は帰るように言われ、二時四十分の広島駅発の汽車にて帰り、次の日に諫早駅に着き、各自、工場に帰り、解散しました。

帰諫

翌日からは残務整理で、希望者のみで作業を行いました。徴用工員はほとんど帰宅されたようでした。残務整理は九月いっぱいでした。残務整理中はモーターなどの格納が主な作業でした。場所は今の奥村形成外科付近で、あそこは山でしたので、島原鉄道の側にトンネルを掘り、二か所に大事なモーターや工具類を全部入れました。
九月三十日、本工場はそのままにして、入口に釘打ちして閉鎖したのです。これで私の戦争関係は終りました。
その後、私は、昭和五十六年に肝臓の病気を患い、半年以上入院しました。いまでも、目、肝臓、足の裏などの病気を抱えています。放射能の影響が後から出てきていると思っております。

 (平成30年9月 寄稿)

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政策振興部 企画政策課
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