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父・小泉政利、母・小泉クニヨの被爆体験を語る ~語り継ぐ家族の被爆体験(家族証言)~

ページ番号:0002220 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

子どもたちへの伝言

父・小泉政利、母・小泉クニヨの被爆体験を語る ~語り継ぐ家族の被爆体験(家族証言)~

井石 昭子さん(諫早市)

▼戦争・被爆体験講話(動画)を見る

※クリックすると動画を再生できます

<一般版>

 

<小学生版>

 

▼戦争・被爆体験談を読む

私は昭和18年大阪で生まれました。戦争が終わる2年前です。両親は原爆投下されるなど予想もせず、父の結核療養のため、大阪から空気の良い母の故郷・長崎へ家族6人で移転しました。原爆に遭いに来たようなものです。

小泉家の家系図の画像
<小泉家の家系図> 

 

その後、私は2歳足らずで母に背負われ、長崎の爆心地に入った入市被爆者(※1)です。当時私は4人兄妹の末っ子の1歳10ヶ月で、記憶は全くなく、父からの語り聞きと幼い頃の記憶です。

戦争が進む中、36歳の父にも「兵隊に行きなさい」という命令状、いわゆる兵役召集令状の赤い紙が届き、町内の人々が日の丸の小旗を振って、「お国のために」と軍歌で見送られました。命令に従わないと牢屋に入れられました。当時、日本は軍国主義(※2)の教育でした。

(※1)入市被爆者…原子爆弾が投下されてから2週間以内に救護活動や親族探し等のために爆心地から約2kmの区域内に立ち入った者

(※2)軍国主義…外交の手段として戦争を重視し、政治、経済、教育、文化などのあらゆる活動は軍事力強化のために行わなければならないとする国家体制や思想

 

軍歌歌詞の画像
<軍歌歌詞>

 

ところが父は入隊の健康診断で、一列に並べられ、軍隊の偉い方が「この中で病気持ちや病弱な者は、一歩前に出ろ」の命令に、父は正直に列を離れて前に出ました。中にはためらって迷っている人もいましたが、すぐに次の言葉で人生が決められました。「ここまで!」と、数人のみで打ち切られました。
体力がない人は足手まといで役に立たないからです。後に姉から聞いた話ですが、その後、兵役を免れた父は、町内の人々に見送られた後ろめたさを感じ、家から一歩も出られずに過ごしました。

8月8日、私達家族6人は自宅を離れ、現在、純心大学や原爆ホームがある所で爆心地から直線で5km(曲がりくねった山道は8km)の距離の所に避難しました。

翌8月9日、父はいつもと違って遠い道のりを出勤しました。
父(小泉政利)の職場は油木町、昔の長崎商業高校(現在、愛称・カブトガニ体育館)で、松山町の爆心地からは約1kmの場所でした。
英語教師の父は当時、敵国の言葉に「日本国民じゃない」という「非国民」と言われ、日本史を担当しました。母は浦上教会近くの女学校の体育教師でした。

被爆前の航空写真の画像
<被爆前の航空写真> 写真:長崎原爆資料館所蔵
当時の私たち家族の生活圏(被爆前航空写真)
当時・平和公園の場所に、浦上刑務支所があり、独特の屋根の全景が分かる。

 

大人になってから姉に聞いた話ですが、大阪から引っ越して来た長崎の自宅は西洋風の家で、何と、現在の平和祈念像のすぐ傍でした。
祈念像の上を指す右手は原爆投下を表し、水平にかざす左手は平和を表しています。その左手先の崖下にまさに自宅がありました。

当時を復元した古い町内地図の橋口町のページに自宅【小泉】の名前がありました。原子爆弾は自宅のすぐ近くに落とされたのです。
奇跡でしょうか、1日前に避難していなければ、その日そこに居たら死んでいたのです。

平和祈念像の画像
<平和祈念像>

 

母の手記にはこう記されていました。
「忘れもしません。私たちの運命は昭和20年、正に原爆投下の前日の8月8日だったのです。離れた水の浦町・三菱造船所近くに住んでいた母・ハツ(私の祖母)が、橋口町の自宅に突然やって来て、親戚を頼って避難しようと言いました。

母は子供4人を抱え、どこの世話になることができよう、どこで死んでも同じだと考え、動こうとしませんでした。ところが祖母は一人で出かけ始めたのです。仕方なく母も1歳10ヶ月の私を背負い、3人の子供たちの手を引いてついて行きました。

全くの着の身着のままで、行き着いた所は、山々に囲まれた三ツ山と言う、遠縁の谷川様宅でした」。と原爆ホームがまとめ、戦後50年目に発行された「原爆体験記」の本の中にありました。

母の手記の画像
<母の手記>

 

そして運命の8月9日、三ツ山へ避難していた家族は、爆弾を積んだ戦闘機「B29爆撃機」の急降下のすごい音と青白い眩しい光に、6歳の姉が1歳10ヶ月の私を背負い、傍の竹やぶに身を寄せました。その日の夕方頃か、三ツ山の方にも風に乗って大量の紙クズがチラチラと降ってきました。母が手にすると、長崎大学病院の診療記録・カルテの燃え残りでした。

母の手記によると、避難先の三ツ山で「長崎は全滅した」との情報に、母は父の死を覚悟し翌日、父の骨を拾いに行く予定でした。ところが、父が突然全滅した長崎から、その日の夕方生きて帰って来たのです。「オーイ、オーイ」と呼ぶ声で夫と分かり、メガネもなくドロドロに汚れた姿は見る影もありません。地獄絵を一気に語った父は、次の日も死んだように眠り通しました。

原爆投下から3日目、母は着の身着のまま出たため我が家が気になり、子供たちを連れて自宅の橋口町へ行き、跡形もなく消失した自宅に落胆。しかも当時、放射能や放射線を知る由もありません。

近くの井戸端では、子供たちと一緒によく遊んだ百合子ちゃん親子が抱き合って黒焦げでした。床下の物置の瓦礫を掘ると空気が流れ込み、再び燃え出し手が付けられなくて結局何も取り出せないままでした。

母はこれから先どうやって子供たちを育てていこうか、全くの無一物に幼い4人の子達と帰る三ツ山まで2里余り・約8kmの幾つもの山越えは、重い足取りでした。

被爆後の長崎医科大学付属病院(爆心地から700m)の画像
<被爆後の長崎医科大学付属病院(爆心地から700m)>
写真:長崎原爆資料館所蔵
病院のカルテの燃え残りが、避難した三ツ山にも風に乗って飛んできていた。

 

その後、父は幼い私達にその日の様子を語ってくれました。

8月9日の午前中、戦争中で授業などなく、父は生徒と共に商業高校の運動場脇で、空からの攻撃を防ぐ大きな穴の防空壕を掘っていました。近くにいた先生も、友軍機(味方の飛行機)と思っていたら、突然B29爆撃機が近付く音と同時に急降下し、逃げる間もなく、目で見れない程の青白い光と爆風の衝撃に気を失い、あとは覚えていない。

どれ程の時間が過ぎたのか、気が付くと防空壕の入り口は煙が渦巻き何も見えない。視界が開けるにつれ、信じられない様子が目に飛び込んだ。逃げ遅れた生徒達があちこちに倒れ、助ける術もありません。大やけどで全身の皮膚をベロリと垂れ下げたまま、引きずりながら「やられた…やられた…水を、水を…」と。
その声が生涯耳から離れなかったと、父は生前言っていました。

校舎の中にいた生徒も、爆風で割れた窓ガラスが全身に刺さり、血だらけでした。
父は爆風で防空壕の奥に吹き飛ばされ、奇跡的に助かったのです。

メガネも吹き飛ばされ、腰も打ち、四つ這いの手探り状態で帰宅しようにも道も橋も通ることができず、浦上川の中は水を求めて泥水の水溜りに、頭を突っ込んだまま動かない姿が至る所にあった。地獄絵そのものだったと語っていました。

当時、水を欲しがった人々の為、現在は平和公園に「平和の泉」という噴水が造られています。

被爆後の市立商業学校の画像1被爆後の市立商業学校の画像2
<被爆後の市立商業学校>写真:長崎原爆資料館所蔵

商業高校 運動場の被爆の様子(生き残った卒業生が描いた絵)の画像
<商業高校 運動場の被爆の様子(生き残った卒業生が描いた絵)>
絵:長崎原爆資料館所蔵
燃え盛る中、自身の姿や負傷者を運ぶ人、倒れた人々が描かれている。

 

平成7年に発行された長崎商業高校の創立110年記念誌での卒業生の証言です。

「原爆が落とされた時は、上空に銀色の機体と爆音。『敵機だ、逃げろ』の小泉教諭(私の父)の叫び声が聞こえた。必死で私は防空壕に逃げ込んだ。だが級友の数人は何を思ったのか『日本機がきたぞ』と勇んで裏山に駆け登った。これが運命というものだろうか。“ピカッ”と何千何万ものフラッシュを一度にたいたような閃光がしたかと思うと、地面に叩きつけられた。」と記されていました。(高3・橋口さんの証言)

又、父が語っていたように、浦上川の中の遺体の様子も記されていました。(高3・井上さんの証言)

長崎商業高校創業110周年記念誌の画像
<長崎商業高校創業110周年記念誌>

 

その後の資料によると、アメリカの攻撃目標は小倉が第一目標でしたが、上空の視界が悪く、第二目標の長崎に原子爆弾が投下されました。

長崎では三菱造船所が兵器工場で攻撃の的でしたが、雲で視界が悪く、雲が途切れた・雲間の松山町上空に原爆が落とされ、上空500mで炸裂しました。被害を最大にするために計算された高度で、死者約7万4,000人が犠牲となりました。

その後、この焼け跡に三菱製鋼所があり、学生時代のバス通学時には8年間ここを通っていました。

被爆後の三菱兵器茂里町工場(爆心地から1.4km)の画像
<被爆後の三菱兵器茂里町工場(爆心地から1.4km)>
写真:長崎原爆資料館所蔵

被爆後の城山国民学校(小学校)の画像
<被爆後の城山国民学校(小学校)>
写真:長崎原爆資料館所蔵
鉄筋コンクリート造りの校舎のみの残がい。他は焼け野が原。

 

被爆後は、稲佐山の麓・水の浦町にある祖母宅に間借りをしました。浦上方面からは山陰で倒壊だけは免れ、爆風で壊れた窓や壁を補修し、私達6人の大家族が同居し全部で12人の生活でした。(現在、海抜約300mの稲佐山からの夜景は、新世界三大夜景の一つになりました。)

大家族で食糧不足に、小学生の足で片道2時間の遠い福田の畑から芋やカボチャを背負い通いました。校区の飽の浦小学校の前を通る時は、友達に会うのが恥ずかしくて、走っていました。

水の浦から見た長崎港の画像
<水の浦から見た長崎港>
写真:長崎原爆資料館所蔵(エドワード・ロジャーズ氏提供)
被爆後、水の浦町の祖母宅に同居、対岸は大波止

 

その後、兵隊に出ていた母の弟である叔父が、生きて帰ることができました。これを復員と言い、九死に一生を得たのです。日本から遠い最前線のビルマ(現在・東南アジアのミャンマー)でジャングルの中、食べ物も尽き果て多くの仲間も餓死し、叔父はカエルやヘビ・ネズミ・トカゲ・を食べて生き延びました。

進軍の途中には荒野もあり分厚い靴底の軍靴で踏みつぶされて食べる草さえなく、戦場では通常の心理状態を失い、空腹に耐えかね、敵か味方なのか死んだ兵士の遺体を焼いて食べた仲間もいたそうです。そう語る叔父も恐らく食べたのではないかと、姉は言っていました。

体力のある人しか生きて帰れません。敵を殺さねば自分が殺される。
そうした中の銃撃戦で間一髪か、敵の銃弾が片目をかすめ失明していました。これも奇跡でしょうか。あと1cm近いと頭を貫かれていたのです。

終戦時、帰国できなかった残留兵は推計1万人、中には30年も終戦を知らずに、グアム島やフィリピンのジャングルに隠れていた方もいました。帰国しても、戦場での殺し合いで心を病み、自殺する人々もいました。

その後、叔父は失明した目を取り除き、代わりに瞳に似せたガラス玉を入れていました。寝るときは、はずしてコップの水に浸していたので、幼い私は夜、叔父のその作り物の義眼がコップの水の中にあるのを見て、怖かった記憶が鮮明に残っています。

中学生時、その叔父から私達姉妹は習字を習いました。とても教育熱心な叔父で、子供5人の母を全ての面で支えてくれました。

もし、父が出征していたら、生きて帰れなかったかもしれないし、戦後生まれの弟の存在もなかったかもしれません。

戦後、父は職場の学校も焼け、皮肉にも非国民と言われた英語教師だったお陰で一時期、アメリカ軍の基地である進駐軍の要請で通訳をし、少々の瓦礫の中もジープに同乗して廻り、機関車の運転席にも優先的に乗せてもらいました。

謝礼なのか、当時珍しいアメリカのコンビーフの缶詰やチーズ・チョコレートなどを貰って帰りました。
叔父はチーズを石鹸と間違え、泡が出ないと言っていたそうです。
その他、アメリカ兵のモスグリーン色・くすんだ緑色の帽子や衣服も頂きました。

基地となった進駐軍のトラックの画像
<基地となった進駐軍のトラック>
写真:長崎原爆資料館所蔵(エドワード・ロジャーズ氏提供)

アメリカ兵から物資をもらうの画像
<アメリカ兵から物資をもらう>
写真:長崎原爆資料館所蔵(エドワード・ロジャーズ氏提供)

 

当時、大波止桟橋から歩いて県庁の坂を上り詰めると、瓦礫と化した県庁跡がまだ残されていました。その前の道端に薄汚れた白衣の元軍人さん達数人が、戦争で負傷した手足に松葉杖や、人工で作った金属の手足の義手・義足をつけて立ち並び、両足切断の方は座ってアコーディオンを弾いていました。

その前にはカーキ色・枯れ草色の軍人帽を逆にして置き、お金の寄付を求めていました。中に少しの小銭が見えましたが、私達5人の子が小遣いを貰う余裕もなく、子供ながらに足早にその前を通った記憶があります。

被爆後の長崎県庁の画像
<被爆後の長崎県庁>
写真:長崎原爆資料館所蔵
黒こげで屋根の鉄筋もむき出し。現在は新しい県庁が大波止(長崎駅近く)に移転。

 

その後、父は現在テレビでも有名な、歌手の美輪明宏氏が在籍していた海星高校を経て、県立長崎西高校に勤務し、ここでは著名なアナウンサーの草野仁氏が生徒さんでした。

定年後は私達3姉妹の母校・純心高校や短大、更に予備校や外国語短大で80歳近くまで勤め、退職後、新大工町にあった「ABCC」と言う後の原爆放射線影響研究所の人体検査に協力し、昼食付きの送迎車で定期的に通っていました。

父は健康を第一に、酒・タバコも生涯のまず、2002年に亡くなり、93歳でした。脳梗塞で言葉もなく寝たきりで、2年早く亡くなった母の死を知らせぬままでした。

私より2歳上の長崎市役所勤務の兄(小泉勝)が原爆資料館の三代目館長に就任した頃、兄は仕事柄、数冊の「原爆体験記」の中に母の手記を目にしました。

当時、母はパーキンソン病で特別養護老人ホームに入居し、言葉もなく寝たきり状態で、私達が曜日を決めて交代で見舞いに行くけど、母は我が子に原爆の悲惨さを語ろうとしないまま、2000年88歳で他界し、記憶がある数年前に原爆ホームがまとめた体験記に、書いていたことを私達は初めて知りました。

平成10年、インド・ニューデリーでの原爆展に出席した兄は、「核不拡散条約」(NPT)の「核を造らない、核を持たない、持ち込ませない」のパネルを、核保有国のインド政府から撤去されました。しかし、政府高官からは個人的に「平和のメッセージを続けてくれ」と激励を受け、兄は「私達の活動は無駄ではなかった」と、同年4月の朝日新聞の紙面で語っていました。

現在、世界中には1万3千発以上の核兵器があると言われ、その恐ろしい「核」があるからお互いの国が恐れ、戦争が起きないと屁理屈を言っています。
これを「核抑止力」と言うが、果たして疑問です。愚かな人間は、あると使いたくなるのではないでしょうか。

家族写真の画像
<家族写真>
半世紀以上前の家族(20歳の頃の三女・私)当時は白黒写真

 

毎年8月9日が来ると、私は高校1年時に平和祈念像の前で歌った母校・純心高校コーラス「原爆を許すまじ」を半世紀以上前の歌詞もおぼろげに思い出します。

半世紀以上前の記憶のままに書きました。

「原爆を許すまじ」

♬ ふるさとの街 焼かれ
身寄りの骨 埋めし焼け土に
いまは白い花咲く
ああ許すまじ原爆を
三度(みたび)許すまじ原爆を…(広島・長崎・××)
われらの街に ♬

現在、平和公園では原爆投下された11時2分、このメロディーが流れています。

純心高校コーラスの画像
<純心高校コーラス>
8月9日平和祈念像の前で歌った母校・純心高校コーラス(高校1年時)

 

平成28年5月28日の朝日新聞紙面によると、

オバマ米大統領は27日夕、米国の現職大統領として初めて被爆地・広島を訪れ、平和祈念資料館を視察し、死没者慰霊碑で献花されました。

演説で「私は原爆犠牲者の追悼に来た。広島と長崎は『核兵器の幕開け』ではなく道徳の目覚めの始まりである」と述べ、『核なき世界』を主導していく決意を改めて示されました。

原爆資料館ではオバマ氏が突然こう切り出しました。「実は折り鶴を持ってきました」。梅や桜の花が彩る和紙を丁寧に折り、「少し手伝ってもらったけど、私が作りました」。芳名録にメッセージを書くと、その上に2羽(4羽のうち)をそっと置かれました。

「私たちは皆、歴史を直視する責任があります」と書かれたメッセージも添えられていました。長崎原爆資料館に展示されています。

平成28年5月29日朝日新聞紙面:元・オバマ大統領 広島訪問の画像
<平成28年5月29日朝日新聞紙面:元・オバマ大統領 広島訪問>

平成29年1月7日朝日新聞紙面:元・オバマ大統領「長崎のために」の画像
<平成29年1月7日朝日新聞紙面:元・オバマ大統領「長崎のために」>

 

私は、被爆70年目に一念発起し、昨年の被爆76年目(2021年)まで長崎市・諫早市の小中高や原爆資料館で原爆語り部として活動していました。

(令和4年8月寄稿)