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おうちミュージアム(江戸~明治編)

ページ番号:0002090 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

おうちミュージアムのマーク

諫早市美術・歴史館の収蔵資料をピックアップしてご紹介します。

  1. 座居帳
  2. 江戸日記
  3. 浦手台場
  4. エーセルテレカラフ
  5. 地券之證

座居帳(ざいちょう)

万延二年(1861)
縦13.2cm×横37.7cm
座居帳とは諫早家家臣中の578名の序列名簿のことを言います。
一代加判(いちだいかはん)、与付之間番頭(くみつきのまばんがしら)、御目見通(おめみどおり)、独礼(どくれい)、独礼部屋棲(どくれいへやすみ)、一代独礼(いちだいどくれい)、役ノ間独礼(やくのまどくれい)、独礼医師(どくれいいし)、役ノ間独礼医師(やくのまどくれいいし)、平侍(ひらさむらい)、嘉永七寅矢上土着(かえいななとらやがみどちゃく)、一代平侍(いちだいひらさむらい)、外御目見平侍(そとおめみひらさむらい)、小与御目見次第(こくみおめみしだい)に分けて書かれており、それぞれの格での序列、家禄(かろく)、名前が記されています。
序列は家禄の多い少ないは関係なく、その序列は家取り潰しなどがない限り変わることはありません。

江戸日記(えどにっき)

江戸日記の写真
元文3年(1738)
縦27.2cm×横20.0cm
江戸日記は諫早家第8代領主茂行(しげゆき)公の江戸参府の日記です。
10月13日に佐賀城内にある諫早屋敷(現佐賀西高校)を御供の53人と出立→神埼→轟木→直方→木屋ノ瀬→黒崎→大里~瀬戸内海(船)~大坂→伏見→草津→水口→桑名~伊勢湾(船)~鳴海→岡崎→浜松→大井川→沼津→箱根→小田原→戸塚→品川と上り、11月17日に佐賀藩桜田上屋敷(現日比谷公園内)に到着するまでの36日間の道中での出来事、江戸滞在期間中の出来事が書かれています。
諫早家の領主は藩主では無いので参勤交代の義務はありませんでしたが、佐賀藩の要職に就いた場合は佐賀藩主に随行して江戸へ行くことがありました。

浦手台場(うらてだいば)

経ヶ岳浦台場の写真
経ヶ岳浦台場

直径740cm 縁石幅33cm
所在:飯盛町池下経ヶ岳
海外と唯一つながる長崎港にはオランダ船や唐船が出入りします。そうしたなかでの長崎港警備は寛永17年(1640)、ポルトガル使節が前年の鎖国令にもかかわらず通商をもとめて来航したことから始まりました。寛永18年、幕府は西泊と戸町に石火矢台場を設置、よく年からは福岡藩(黒田家)と佐賀藩(鍋島家)とを中心に、それを秋月、唐津、島原、平戸、五島、大村の各藩が支援するという体制でした。台場は承応3年(1653)には大多越・女神・神崎・白崎・高鉾・長刀岩・陰尾の7箇所に設置、大砲39砲を置いています。
これらの台場へは佐賀藩、福岡藩と各年交代の当番で警固役にあたり、佐賀藩では諫早領が長崎に隣接するため長崎港警備のため諫早家が台場に赴くことが多くありました。この台場は幕末近くまでその数に変化はなかったのですが、文化5(1808)年8月イギリスのフェートン号の急な入港になすすべもなかったことから大きくかわり、この年の11月には新たに5ヶ所の、さらに翌年7月に4箇所の台場を増設しました。このときの台場に備えた大砲は113砲を数えました。フェートン号が幕府に与えた衝撃の大きさをあらわしています。諫早家はそうした台場を警備のたびに受け持ちましたが、決まった台場ではなく、出動のたびに持ち場の台場はかわります。さらに弘化元(1844)年のオランダ軍艦パレンバン号の入港には佐賀、大村、福岡の各藩が出兵し、緊張が高まる警備は幕末まで続きます。
諫早でも佐賀藩と行動をともにし、警護の任につきますが、領内には橘湾をひかえていたため、その海岸線にも台場を設ける必要がありました。そこで第11代茂圖公は文化元(1804)年これを浦手台場と呼び、異国船の来航を早く見つける場所を選んで遠見番所や台場を設置しました。『日新記』には設置する台場が幕末近くには数が増し、緊迫した情勢が読み取れます。

エーセルテレカラフ

エーセルテレカラフの写真
エーセルテレカラフとは、電信機のことで、エーセルは光・熱・電気・磁気等の仮想媒体、テレカラフは電信機の意です。
本機は、指示式電信機で、受信機と送信機の二台よりなります。それぞれ木箱に収納され、木箱の表書には「元治元年甲 中村考 エーセルテレカラフ 子八月吉辰」「元治元年甲 中村考 エーセルテレカラフ 子八月嘉平日」と記され、元治元年すなわち西暦1864年以前に制作されたものと推定されます。
ちなみに、榊原聖文著「わが国初期の電信機の絵巻について」によれば、文久2(1862)年以前に我が国にもたらされた電信機は5件が知られています。

  1. 嘉永7(1854)年1月13日出島オランダ商館の電信機
  2. 嘉永7(1854)年2月ペリー献上の電信機
  3. 安政元(1854)年閏7月オランダ献上の電信機
  4. 安政5(1858)年11月福井藩購入の電信機
  5. 万延元(1860)年プロシヤの電信機

このうち1・5は指示式電信機、2はモールス符号の痕跡を残す印字式電信機ですがこれは現存するものはありません。
本機は、指示式、モールス式の折衷形式で、過度期の作と推されます。また、本機は「い、ろ、は、に、ほ、・・・」の47文字を配しており、佐賀藩の精煉方で作られたものと思われます。
なお、箱書は「中村」とあり、佐賀藩精煉方の中村奇輔のことと思われます。
本機は我が国の電信史を研究する上において重要であり、また、現存する最古のものです。

地券之證(ちけんのしょう)

地券之證の写真
明治5年(1872)年2月10日、四民すべてに土地売買を許し、売買や譲渡のさいに所有権を保証したのが地券で、七月には全国の私有地に地券を交付しました。それを経て翌6年(1873)七月二八日地租改正令を発布。土地の所有者、つまり地券所有者が納税するとしたものです。それまで豊作、不作で米価格は変動し税収が一定していなかったのを、また藩により税率に違いがあったのを地券発行により全国一律とするもので、安定した税収を目指し、先に発行した地券を納税の有効な手段としたものです。地券の発行は地租改正への布石でした。