諫早市美術・歴史館の常設展示室に展示している展示品をピックアップしてご紹介します。また、美歴コンシェルジュによる動画説明を観ることができます。

  1. 四面神信仰
  2. 西郷の板碑
  3. 神祇血脉
  4. 宣度大先達春峰入絵巻
  5. 大雄寺の十一面観世音菩薩坐像
  6. 領知方目録

◆美歴コンシェルジュ

四面神信仰(しめんしんしんこう)

四面神信仰の写真

※左から、南)宝生如来、東)阿閦如来、北)不空成就如来、西)阿弥陀如来

緑泥片岩 高さ20cm 一面の幅13cm
所在:飯盛町里
本資料は温泉山(雲仙)を拠点とする修験道の四面信仰の広がりを示す資料です。
四面信仰は古くは雲仙の温泉神信仰に発します。雲仙岳の文献への初出は『肥前国風土記』で峯湯泉とあり、景行天皇巡航の個所には高来津座の神があり、これにより高来津座神を祀る一群があったとこと考えられます。平安時代ごろから密教の普及に伴い雲仙に修験道が入り、その道場となると、曼荼羅の世界観のもとに古くらの高来津座神―温泉神を中心として東に阿閦如来、南に宝生如来、西に阿弥陀如来、北に不空成就を本地仏とする四面神信仰が流布します。四面神について『温泉山鎮将四面大菩薩縁起』から金剛界曼荼羅の世界観のなか温泉神を大日如来を中心に、その四方を阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就の如来とした五智如来を置いたことがわかります。

西郷の板碑(にしごうのいたび) ※写真を展示

西郷の板碑の写真

西郷の板碑は、高さ約2m、幅約1.3m、厚さ約7.5cmの砂岩板状石を用いています。板碑には上方に胎蔵界大日如来(ア)、右下に不動明王(カーン)、左下に毘沙門天(ベイ)の種子が月輪の中に刻まれており、不動明王と毘沙門天の種子の間に、「建久元季才次庚戌十一月日(1190)」と刻まれています。
板碑は追善供養や逆修の目的で建立され、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、主に関東地方を中心に多く存在します。
江戸時代は、慈眼院という真言宗の寺院がありましたが、明治の廃仏毀釈により、廃寺となりました。
西郷の板碑は長崎県下の石造物の紀年銘のうち、最古のものとみられています。

 神祇血脉(じんぎけちみゃく)

神祇血脈の写真1枚目

神祇血脈の写真2枚目

永禄10年(1567)
縦19.1cm×横724.1cm
神祇血脉の内容は、火という神秘的生産力、すなわち鍛冶の業の根本にある神力が、神々から天皇、天皇から密教僧侶へと継承されて来た系譜を示したものです。
巻末に「永禄十年丁夘五月吉橘朝臣中村大蔵尉盛利 花押」と書かれています。この中村大蔵尉盛利は『西郷記』「大鯰(なまず)上る事」で「純堯(すみたか)代栄田村の内平野と言う所に中村大蔵とて刀作りの鍛冶有り」とあり、『神祇血脉』に記載のある人物と同一と思われます。また、『西郷記』「大鯰上る事」の最後に「大蔵伝授の鍛冶の秘書于今持ち来たりこれあり」と記載があるのが展示の『神祇血脉』であると思われます。
※『西郷記』は伊佐早を治めていた西郷氏の事、西郷氏と龍造寺氏との高城の攻防などが書かれています。

宣度大先達春峰入絵巻(せんどだいせんだつはるみねいりえまき)

宣度大先達春峰入絵巻の写真

紙本着彩
江戸時代
行列の巻 長さ1145.0cm 幅24.2cm
祭礼の巻 長さ 804.0cm 幅24.2cm
日本三大修験霊場である英彦山(福岡県田川郡添田町)での修験者の峰入りと祭礼の様子を描いた絵巻物です。修験道では峰入りが春と秋に行われていましたが、本絵巻きは春峰入りを描いたものです。
行列の巻には刀出衆拾六人―刀高臈拾壱人―御田出衆拾八―御田高臈両人―神人―人形舞―靪打―供僧
―色高臈拾壱人―色出衆拾六人―座主出仕行列―警固五拾人―学導三拾人―阿闍梨法印―衆徒山伏
―宿老―一家坊―警固―宣度大先達桟敷列座―役行者装束笈―宣度大先達春峯駈入行列―先達笈―
装束笈―宣度當先達―宣度請取先達―古先達三十六人の列とあり、修験者の持ち物、持ち方、峰入り時の服装や行列の順序が描かれています。
祭礼の巻には御田荘厳―鏑流馬―大講堂座主出仕列座―一家坊―當盛一臈―学導―奉行―御田役―種子蒔―御田植―獅子舞―役行者装束笈―宣度請取先達の場面があり、農家の種まきから祭りまでの次第が描かれています。この絵巻物が画かれた時代、修験道と民衆がいかに密接であったかがわかります。
本絵巻は英彦山神宮や松浦史料博物館などに同様ものがありますが残されたものは少なく貴重な史料です。中でも松浦史料博物館蔵のものとは似通い、同じ作者の作と考えられます。
諫早では、牛尾山別当坊(佐賀県小城市)を拠点とした胎蔵金剛両部曼荼羅ノ灌頂道場があり、金剛の峰と呼ぶ多良岳を道場とした修験道の存在が平安のころから盛んでした。

大雄寺の十一面観世音菩薩坐像(だいおうじのじゅういちめんかんぜおんぼさつざぞう)

大雄寺の十一面観世音菩薩坐像の写真

諫早家初代龍造寺家晴公が文禄・慶長の役に際し、拝具したものと伝えられています。その後、代々諫早家の守り本尊として高城の頂上に奉安してありましたが、第8代茂行公が元文5年(1740)、大雄寺東方に御堂を建立し奉安しました。
十一面観音の一般的な像容にあてはまり、頭に宝冠を被り、頭上中央に阿弥陀如来の化仏、前三面に慈悲、左三面に瞋怒、右三面に白牙上出、後一面に暴悪大笑の相が彫られています。また眉間に百毫をはめ、端麗なお顔をしており、天衣、条帛、衣をまとい、右手は与願印、左手には本来蓮華が挿されていたであろう水瓶を持っています。背面には、永正10年(1513)の黒書が書かれており、約500年前の仏像です。

【背面墨書】
福壽山慈現寺本尊
志者為 禅定尼現世安穏(カ)
奉造立十一面観音弌軀
後生善所也殊者講衆各々此趣也
于時永正十年癸酉十一月十八日

領知方目録(りょうちかたもくろく)

領知方目録の写真

縦38.5cm 横52.5cm
天正15年(1587)6月、九州を平定した秀吉は島津攻めでの論功をおこないます。ここで竜造寺氏は肥前の地を安堵されますが、龍造寺家晴は所領である柳川を召し上げられ、代わりの領地は安堵されませんでした。そこで豊臣秀吉に訴え、かわりに西郷氏の領地であった22,502石5斗を貰い受けます。このとき豊臣秀吉より下された朱印状が領地安堵の目録「領知方目録」です。これを頂くことにより秀吉の後ろ盾を得て、領主権が認められます。目録はその領主の権力が及ぶ範囲を決めて通達したものです。これによると天正18年3月7日付けで家晴の領国が確定、領主権が認められました。これを得て家晴は西郷氏に伊佐早からの退去を迫ります。

領知方目録
一 壱万四千八百弐石八斗 たかく郡内伊佐早庄
一 弐千弐百五石五斗    藤津郡内
一 九百九十壱石       そのき郡内
一 四千五百参石壱斗    小城郡内
合弐萬弐千五百弐石五斗

右於肥前国令扶助訖全可領知然上者
藤八郎致隋逐軍役等可相勤者也

天正十八年三月七日 御朱印

龍造寺七郎左衛門とのへ

◆美歴コンシェルジュ

 

 

お問い合わせ
諫早市美術・歴史館
〒854-0014 長崎県諫早市東小路町2-33
電話番号:0957-24-6611
ファクス:0957-24-6633

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