上松タツエさん(諫早市永昌町)

8月9日
とても暑い午後でした。空襲警報が解除になりホッとひと息ついて7カ月になる娘に乳を飲ませていると、突然「ドーン」と大きな音がしたかと思うと、目の前の国道を、真赤に燃える火の玉が「ゴーッ」と、転がっていくではありませんか。爆弾が、すぐ近くに落ちたのに違いないと思い、とにかく子どもを、三人の子どもを防空壕へ―。無我夢中でした。
しばらくすると、壕の外に、人々の騒ぐ声がします。見ると、空一面が真赤に燃え、私の足元までも真赤に染めたのです。
と、あっという間に、燃える空は一面黒い雲に覆われたように、不気味な暗さになったのです。そしてそこには、ただ、膨張して何倍も大きくなったような太陽だけが赤く、赤く、燃えていました。訳の分からぬ恐ろしさにあ然としていると、誰かが突然「フーセン爆弾だ!」と言い出しました。すると皆、口々に「フーセン爆弾だ、フーセン爆弾だ!」と、騒ぎ出してしまったのです。3時頃だったでしょうか。父の知らせで、長崎に爆弾が落ちたことを知りました。その時は「原爆」等という言葉さえ、よく知らなかったのですから、それからが大変でした。それぞれの班の婦人たちは、救護に行く者、炊き出しをする者とに別れ、私も救護団の一員となって、駅への道を急いだのです。駅は、大混乱でした。消防団員や駅員の方々が、総出で汽車の中の負傷者を抱えては、ホームに寝かせておられます。その負傷者の方たちを目前にして、あまりの惨さに、声も出ませんでした。髪は焼け、着衣は破れ、顔や身体は、赤く黒くただれ、異様な臭いが漂い、「水を、水を…」と、呻く声、声、声…。まるで、生き地獄を見ているようでした。救護団員の中には、気を失う人や嘔吐する人もありました。私たちは、言われるままに、用意してあった担架で、負傷者を諫高の校庭まで運ばなければならなかったのです。最初に運んだ方は、50歳位の男の人でしたが、顔も形も分からないほど焼け、目は飛び出し、鼻はグシャグシャで、つい顔を背けそうになる自分を、制することは出来ませんでした。肩の皮がズルズル剥けるので、消防員の方に手伝ってもらい、やっとの思いで、担架に乗せたのです。途中、聞きとれぬような小さな声で「水を…、水を。」と、唸っておられました。校庭には、何人もの負傷者の方が、ムシロや藁の上に、ゴロゴロと寝かされておられました。駅に戻ると、驚いたことに、ホームは負傷者、いえ被爆者の山。あちこちで「水を…水を…」と言う声。
息絶えてゆく人たちの姿も、そこここで見られました。2度目に運んだ人は、中年のご婦人でした。着衣は破れ、髪は焼けていましたが、最初の方程、酷くはありませんでした。ただ、担架の上で「坊ヤァー、坊ヤァー」と泣いておられたのが、哀れでした。その後、三人程運びました。
帰宅したのは、七時頃だったでしようか。もう日暮れでした。ぐったり疲れが出てしまい、何をする気にもなれず、まだ臭いが体中に染み付いているような気がして、その日は夕食もとれませんでした。
8月10日
班から3人、海軍病院へ派遣されました。9時頃、病院へ着くと、広い部屋へ通され、そこには、幾つものベッドが並んでいました。私は、端から3番目に寝ておられる男の人のお世話をするようにと言われました。包帯を全身に巻いた、40歳位の方でした。おかゆを食べさせたり、薬を飲ませたり、下の世話をしたり、回診時には、看護婦さんと二人がかりで、包帯を解いては、薬を塗ったり…。
また、手が空くと、他の二人の患者さんの下の世話をしたり、体を拭いたりして、1日を過ごしました。帰宅したのは、5時頃でした。
8月11日
班の方4人と、海軍病院へ行きました。昨日と同じ部屋へ通され、4人の患者さんのお世話をすることになりました。包帯を解くとき、「痛いー、痛い。」と泣く人もいましたが、どうすることも出来ず、ただ薬で真赤になった体を、だまって見るばかりでした。手に軽い火傷をした5歳位の男の子が、病室を歩き回っていましたが、いつの間にか病室を抜け出て、長い廊下をどんどん歩いて行くではありませんか。先日運んだご婦人の「坊ヤァー」という声を思い出し、慌てて追いかけて行くと、ちょうど、角に病室があり、入ろうとすると看護婦さんに固く、止められました。水兵さんの病室だから、立入禁止とのこと…。
坊やを抱いて病室へ戻りましたが、母親にはぐれたのではないかと、気がかりでした。その日の帰り、何気なく病院を振り返り、見ると奥の方から煙が見え、何かと思い尋ねると、「あれは、亡くなられた被爆者の方々を、焼いておられるのよ!」と言われ、なんとも重苦しい気持ちで、帰路につきました。
私の父は、9日は駅に、10日からは女学校にと、ずーっと詰めており、朝夕の食事のために帰宅するだけの毎日でした。長時間、被爆者の方たちと接していたため、丈夫だった父が、その後急激に衰弱し、充分な診療も受けることなく、とうとう、白血病で、昭和25年1月25日、62歳で他界しました。この3日間は私にとって、生涯忘れられない出来事として、永遠に脳裏に焼きつき、離れることは無いのです。

お問い合わせ
政策振興部 企画政策課
〒854-8601 長崎県諫早市東小路町7-1(本庁 ・本館6階)
電話番号:0957-22-1500
ファクス:0957-27-0111

より良いウェブサイトにするために皆様のご意見をお聞かせください

 この情報は役にたちましたか?

読み込み中 ... 読み込み中 ...

 この情報のページは見つけやすかったですか?

読み込み中 ... 読み込み中 ...