山本チミさん(諫早市幸町)

昭和20年8月9日、その当時私の家は、精粉所を経営しており私も当時人手がなかったので、毎日モンペをはいて、手伝っておりました。が、光が「ピカッ」と見えたのと同時に、機械がピタリと止まったので、びっくりして外に飛び出して見ました。近所の方々もたくさんおられ、長崎の方面の空を見ると、真黒い煙が、モクモクと出ているのが見えました。もう、みんな、大騒ぎで、長崎の方がやられたのだということを聞いたのでした。
その夜、家の前の国道を、怪我人らしい方たちが、島原方面へ行かれるのが目にとまりました。多分、原爆にあわれた方たちだろうと思われます。そして、その夜からこの町内にも、看護、炊出しと、市の命令で協力したのでした。そうして私は、10日だったと思いますが、町内の同じ班の人、4、5人と、国民学校に行きました。広い講堂内には、多くの怪我人がおられました。衣服はボロボロ、顔は真黒、外見は傷一つない方など、一目みて呆然とした思いでした。どんな看護をするのか、分からなかったのですが、いろいろと注意を受けながら、オシッコをさせたり、寝返りの手助けをしたり、水を飲ませたり、頼まれる用事をしながら、早く時間がきて交替したい思いでいっぱいでした。ようやく交替の方が見えてその日は、半日で帰りました。
2回目の要請があり、3、4日してから、班の方5、6人と、中学校の体育館へ行きました。
その日は怪我人も、だいぶ減ったという話でした。水を欲しがっている人が多く、前の注意を守りながら、与えてまわりました。
診療に当たられた余瀬医院の先生が来られ、真黒い薬を持って来て、「これを、傷に塗るように――。」ということで、注意を受けながら塗ってまわりました。その時にはもう、傷の中に小さい白いウジが食い入っていました。それを、おそるおそる取ってやったことが、今でも、はっきり思い出されます。看病をする目の前で私が見たのは、2、3人の人が息絶えられた時、男の人たちが荷札に名前を書いて、足の親指にくくりつけ、担架に乗せて外に出し、ムシロを被せて、土間に寝せられたことです。
ようやく夕方になり、帰り仕度をして一緒に行った方たちと、体育館を出て土間に来たとき、教室の入口に「重病患者」と書いてあり、中を覗いて見ると、椅子を四方に積んで、かやが吊ってありました。中から声がして、「自分は、矢上の者で、父と姉と、田の草を取っていた時、こんな目にあったので早く、父と姉とを捜して、ここにいることを知らせてくれ。」と頼まれたのですが、叶えてやることができず、水だけ、かやの裾をおそるおそる開けて、やって来ました。暗くなりかけた道を、本諫早駅前を通って帰って来たことを、思い出します。

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