子どもたちへの伝言

~爆心地から25km離れた諫早で目撃した「生き地獄」の忘れえぬ記憶~
山口忠喜さん(諫早市天満町)の被爆者の救護活動

昭和20年8月9日、11時2分、長崎に原子爆弾が投下されました。私は北諫早小学校の5年生(10歳)、天満町に住んでいました。
原爆投下当日、午前10時頃、空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響きました。我が家のラジオは性能が悪く、雑音でニュースが聴きにくいので、下の家までラジオを聴きに走りました。10時50分には警報が解除となり、安心して下の家の玄関を出ました。その時、頭上でB29爆撃機の爆音がし、見上げると大きな機体を銀色に輝かせながら長崎の方向へ飛んでおり、「警報が解除されたのに、どうして?」と子ども心にも不審に思い、機体の行方を眺めていました。それから1~2分経った時、強烈な赤紫の閃光が空全体を覆い、間もなく大きな爆発音がとどろきました。私は恐怖のため、身動きさえできず、突っ立ったまま足が動きませんでした。ふと西の方向に目を向けると、200M余り離れた本明川の対岸にある海軍病院の別棟の東側の窓ガラスが爆発したように破れ散るのが見えました。とっさの出来事であり、そこに爆弾が落ちたと思い、あわててわが身を伏せました。その後、何事もなかったので我が家へ逃げ帰りました。それから2時間あまり経った頃から、真昼というのに、急に夕暮れ時のように暗くなりました。それは原子爆弾の爆発による「きのこ雲」と広大な浦上のすべてが焼き尽くされて空高く舞い上がった粉じんが、西風に乗って諫早の上空を覆ったためでした。その薄暗さのなか、太陽がひときわ大きく、不気味な赤い風船玉のよう見え、こちらに向かって落ちてくるように感じました。近所の人みんなが、「新型爆弾が落ちてくるぞ」と口々に叫びながら、あわてて防空壕に逃げ込みました。しばらくして空が少し明るくなり、錯覚ということが分かりましたが、錯覚と分かるまでの恐怖と緊張は忘れられない記憶です。
その日、大人たちは田畑で農作業をしていました。警防団の人たちがメガホンで「長崎から新型爆弾で怪我をした人たちが大勢諫早駅に運ばれてくるので、みんなリヤカー、戸板などの運搬用具を持って駅前に集合せよ」と召集をかけて走り回っていました。召集の対象者は老人と婦人でした。当時、敗戦色が高まる中、元気な男性は猫も杓子も赤紙で召集され、外国の戦地へ送り出されていたからです。午後3時過ぎ、私の母も息急き切って田んぼから走って帰るなり、すぐさまリヤカーに戸板を数枚積んで諫早駅を目指して走り出ました。私も後を追い、駅前広場に着いたのは午後4時頃でした。駅前広場には多くの大人たちが集まり、駅からは、次々に目を背けたくなるような、見るも無惨な重傷者が次々に運び出されていました。手足の骨折だけという人はまだ軽い方で、全身が焼けただれ、体のいたるところにガラスの破片が突き刺さり、ドス黒い血を垂らしながら、かすれた声を振り絞って「水、水を飲ませて」と死に物狂いの表情で絶叫されている様子はまさしく「生き地獄」でした。子どもであった私には、あまりにも衝撃が大きく、全身がガクガク震えました。
駅前広場から北へ170mのところに海軍病院の諫早分院(現・諫早総合病院)がありましたが、ここは軍の病院だったため、戦地で負傷した軍人さんで病室はほぼ満室ということでした。そこで、一番南の病棟の外にゴザを敷き詰め、上にはテントを張り、そこへ原爆のけが人はどんどん運び込まれていました。運ばれる途中、負傷された方が我慢できず、水をねだっており、必死に頼み込まれた運び手のおばさんが「飲ませてやりたいけど、飲ませれば死ぬと言われとっとよ」と涙ながらに答えていました。「ひと口飲ませてー」と叫ぶ人もいましたが、声すら出せない人はより一層、苦痛の表情を浮かべておられました。子どもだった私にはどうすることもできず、もどかしさと悲しさで胸が張り裂けそうでした。なかには子どもの負傷者も運ばれていましたが、悲しくてまともに見ることはできず、目を合わせないようにしておりましたが、運ばれてくる負傷者の方があまりにも多くなり、運搬の足が止りました。その時、私は、前にあった戸板に目が釘付けになりました。そこには、全身が焼けただれ、焼け残った肌着が皮膚に焼きつき、火傷でつぶれかけた目を一生懸命開こうとして顔が引きつり、手足をバタバタさせ、大声で泣こうにも声が出ていない1歳前後の幼児の姿がありました。この子から目を離すことができず、高鳴る鼓動をじっと我慢しながら、涙を耐えていましたが、あまりの非常さに胸が張り裂け、我慢も限界となり、涙が止らなくなりました。当時は、「男子は泣くべからず」と教育を受けていましたが、この子の分まで思いっきり大声で泣きながら家まで走って帰りました。
その日の夕方は西からの風で、爆心地である浦上から、全てを破壊し、焼き尽くしながら、空高く舞い上がったキノコ雲により、灰や粉じんが半径30kmにわたり降り注ぎ、25km離れた我が家の庭や周囲の畑にも雪のように降り積もりました。午後8時頃、昼間目撃した悲惨な負傷者の地獄絵が頭から離れず、気が重いうえに、家の中は蒸し暑かったので、私は、庭に出て降り積もった灰の上にゴザを敷き、その上に横になりました。よく大人の方が「心身ともに疲れた」と言いますが、その言葉を味わいながら、ひと眠りしようとまぶたを閉じました。その時、何か異様な音か地響きが聞こえてきました。西風の影響か、高かったり、低かったりする音で、今まで聞いたことがないものでした。その音を確かめたくて、音の方向をたどりました。その音の発生源は、負傷者のテントの中でした。「苦しい」、「水」、「痛いよー」など、苦し紛れの絶叫が何百人もの口から発せられるときの地響きのような集合音でした。そこでは、看護婦さんが忙しそうに立ち回っておられました。私はどうしても確かめたかったので、怒られるのを覚悟して、看護婦さんに「ねー、ねー、看護婦さん。なんで水を飲ませられんとねー」と尋ねると、看護婦さんは丁寧に「この新型爆弾が爆発するときの温度は3000度から4000度あるとよ。その高い熱でのどや気管に大ヤケドを負っているから、水を飲ませるとたちまちに水ぶくれができて、息ができなくなり死ぬとよ」と説明してくださいました。納得し、「そおね。どうもありがとう」とお礼をいい、気がかりな問題が一つわかったので、少し気持ちが軽くなるのを感じました。
夜中11時頃、家に帰りました。母も1時間ぐらい前に帰ってきたとのことで、「大変な仕事だった」と寝言のように口ごもりながら畳の上に大の字になっていました。私も眠ろうとしましたが、なかなか寝付けず、うたた寝の状態で夜が明けました。
翌日、10日は朝から本明川沿いに死体の運搬が始まっていました。海軍病院の負傷者テントから700m余りの天満町に市営の火葬場がありましたが、そこで火葬するための運搬でした。日増しに亡くなる人が増え続け、運ぶ間隔が縮まっていき、運搬手段も、リヤカーから車力、牛車から馬車へと大型化していきました。
20日余り経ったある日、用事があって火葬場の下を通りかかりました。火葬場から約40m余り離れた場所に広場があり、そこに馬車が3台停めてありました。なにか高く積んであり、近寄ってみると1台に20人から30人の死体が積み重ねてあり、上にゴザがかけてありました。異臭がひどく、横の土手が黒く霞むくらいにハエがたかっていました。風上に50mくらい離れたところに馬子と他の馬がいたので、その訳を聞いてみると、ハエが多いので馬が暴れて危ないため、離れた場所で死体の積み込みの順番を待っているとのことでした。
火葬場では運び込まれる死体があまりにも多く、処理できないため、裏の畑に縦・横2Mあまりの大きな穴を掘り、そこへ薪、死体、薪の順で積み込み、上から廃油をかけて燃やし、焼き終わったらお骨の整理を済ませ、次にまた入れ替えて火葬、この繰り返しで、24時間フル稼働で1ヶ月半余り要したようでした。「その苦労は携わった者しかわからない」と火葬作業を行われていた方が話しておられました。そのような中、当時、諫早に3,000人あまりの負傷者が運び込まれ、その7割くらいの方が亡くなられたと聞いていましたが、実際は4,000人あまりが運び込まれたとの集計記録が公表されているようです。なお、市内の数箇所に分散し、負傷者が収容されていたため、死亡された方たちは近くの墓地や適当な広場で火葬が行われたとの話もあります。
私の妻も当時、長崎市の水の浦町に両親と住んでいましたが、そこで8歳(小学校3年生)の時、原爆により被爆しました。被爆後、緊急避難のため、両親の実家がある三重樫山まで、近所に住んでいる人たち15人と歩いて帰っている途中、浦上川沿いを通っていると、川に飛び込み、泳いで反対側の岸をよじ登った方たちが、潟で汚れ、ずぶ濡れの衣服のまま、怪我による出血とヤケドにより倒れ込んでおり、助けを求めて足にすがりつかれ、一緒に歩いていた大人たちがそれを振り切り、「ごめん。ごめんね。」と繰り返し、逃げながら通り抜けたとのことでした。その時は他にどうすることもできなかったそうです。
ようやく被害が大きかった浦上を抜けましたが、そこから樫山まで14kmあまり歩かなければならず、途中で頭痛や腹痛がしてきて、そのうち、発熱と下痢に襲われ、苦しみながら死に物狂いで夜中の道を歩きとおし、ようやくたどり着いたのは翌朝の6時だったそうです。みんな息も絶え絶えで、抱き合って泣いていたとのことで、その記憶は死んでも忘れないと話していました。
妻とは昭和33年に結婚したのですが、妻は被爆から2年後に甲状腺がんを患い、切除手術を行っていました。甲状腺がんは原爆症の初期症状と言われており、それを私に話してくれたのは結婚から5年を経てからのことでした。それまでの10数年間、世間の噂で、「被爆者は白血病で倒れるか、結婚しても奇形児が生まれる確立が高い」などの被爆による後遺症の事例を聞くにつれ、本当に生きることがいやになることもあったそうで、その心境を涙を流しながら話してくれました。「被爆者」と聞いただけでショックを感じることもあったそうです。このように被爆者が自分の責任のように思い込んで悩み続けていたのかと思うと、可哀想でなりませんでした。
昭和34年に長女を出産したのですが、五体満足で生まれたわが子の体全体を確かめながら涙を流して喜んでいました。その後、次女、三女をもうけ、子どもたちは無事成長していきました。昭和44年、妻の体調が悪くなり病院を受診したところ、体の一部にがんが発見され、手術を受けました。昭和55年に私の古里である諫早市に新居を構えました。その後、妻は健康を取り戻し、日本ハム諫早工場に元気に勤めていましたが、平成7年の初夏、体調不良のなか、両腕に発疹が出て、日増しにひどくなりました。そこで、近くの皮膚科で診断し、投薬を試みましたが薬効が現れず、院長から諫早総合病院で精密検査を受けるようにと紹介状を渡されました。翌日、諫早総合病院で約4時間にわたる検査を受け、その結果が言い渡されました。それは、聞きたくもない「骨髄性白血病」との宣告でした。ある程度予期していましたが、痛撃なショックでした。病院からは「この病は抗がん剤の薬効で完治することは皆無で、人によって異なるが、長くて3年、短くて6ヶ月と理解しておいてください。」と説明を受けました。妻には細部についての説明は伝えませんでした。安心したような表情で私を見つめましたが、励ます言葉が思い浮かばず、つらい気持ちを隠すのが精一杯でした。抗がん剤の投薬が始まったとたんに妻は脱力感を訴え、食欲もなくなり、栄養剤の点滴が増やされました。2、3日経った頃から頭髪が抜け出し、間もなく丸坊主になり、毛糸の帽子で頭を隠していました。苦しみながらも、よほど頭が気にかかる様子でした。それから1ヶ月あまりの間、生死との苦しい闘いに必死に耐え抜き、ようやく痛みが和らぎはじめ、日ごとに回復へ向かい、笑顔が見え、冗談も言えるようになり、このまま完治するのではないかと思えるように元気になりました。
年が明け、2月に元気になった妻に、主治医から3日間の外泊許可が出ました。その時の妻の喜ぶ顔は今でも私の脳裏に焼きついています。3日間、家に帰れた喜びを妻とともにかみしめていました。楽しい時間は早いもので、あっという間に3日間が過ぎ、「また病院に行かんばとね」と言葉を残して、病室に戻りました。それから1ヶ月あまりして、また発疹がでました。主治医から「抗がん剤の再使用はどうしますか?」と相談を受けましたが、「あの苦しみは二度とさせたくない」と思い、断りました。それから容態が少しずつ悪くなりましたが、「抗がん剤の苦しみより耐えやすい」と言っていました。痛み止めの点滴だけを続けていましたが命の限界でした。主治医並びに看護婦の皆さんの必死の努力も虚しく、平成8年4月5日、静かに目を閉じ、他界しました。
私は、主治医に「妻は被爆者ですが3度もがんになったのは、原爆と関係があるのでは?」と尋ねましたが、「関係ありません」とのことでした。私は釈然としませんでした。なぜなら、妻が息絶えた諫早総合病院は、原爆による負傷者を収容した海軍病院の跡地に建てられた病院であり、何か因縁めいたものを感じたからです。妻のがんによる苦しみと、原爆により負傷された方の苦しみが重なり、人々に耐え難い苦痛をもたらす原爆に対し、胸がかきむしられるような怒りが込み上げてきました。
私は現在78歳になりましたが、二度と原爆による被害が起こらないために、地球上のすべての核兵器の廃絶と世界平和を目指し、私の体験を一人でも多くの人に語り継いでいきたいと思っています。

(平成25年5月寄稿)

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ファクス:0957-27-0111

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