子どもたちへの伝言

~学徒動員中の被爆体験~ 江嶋ミスヱさん(諫早市栄田町)の被爆体験

私は17歳のとき長崎三菱兵器製作所住吉トンネル工場で被爆した。当時、現在の北諫早中学校にあった長崎県立青年師範学校の2年生で昭和20年1月から学徒動員中だった。
長崎三菱兵器製作所の女子寮は住吉地区にあり、そこでは青年師範学校の担当の教官と40人の女子生徒とともに挺身隊などの女性が工員として生活していた。そこでの忘れえない記憶の一つに食事の合図の手振りの鐘がリンリン鳴ると女子工員が食堂へ脱兎の如く走っていたことが思い起こされる。食堂は1テーブル10人分の配膳がしてあり、ご飯(脱脂大豆入り)と汁物(大根の細切り数本)だけで、テーブルはグループごとに決められていたが、座席は早く来た順となっており、少しでも盛りの多い席へ着くためであった。当時はいかに食糧不足を切り抜けるかが大切で、私たちは、休みに実家から交代で、煎り大豆を袋に入れて帰省していた。夜間学習は昼の仕事の疲れで殆んどできず、大豆をボリボリ食べ、翌日にはニキビが発生していた。女性教官が監督指導の当番に当たると、部屋の出入作法など、所作の指導をいただいたが、私はその当時、女工員そのもので、教師になる研鑚不足が心配だった。
最初に配属された長崎三菱兵器製作所大橋工場へは国防色(黄土色)の作業服に戦闘帽、救急カバン、防空頭巾所持で1小隊(1部屋)ごとに出勤し、門番へ班長の「歩調取れ、頭右」の号令で挨拶をし、まるで兵隊さんであった。私と友人のT子はロクロ機の前で小さな魚雷のネジ作りの作業をしていた。昼食は赤い木製の弁当箱にご飯が少しと平べったい大豆粕、大根漬等が入っていた。学徒動員の生活が数ヶ月経過し、やっと仕事になれた頃から、空襲警報のサイレンが度々鳴った。その都度、長崎三菱兵器製作所住吉トンネルまで走って避難した。
その後、被爆する1週間前に、私とT子は長崎三菱兵器製作所住吉トンネル工場へと配置替えとなり、旋盤機で同じネジ作りとなった。長崎三菱兵器製作所住吉トンネルにはトンネル工場が数本あり、工事中のトンネルもあったが、私達の配置されている3本目のトンネル工場までは兵器製造の機械は設置済みで稼動していた。稼動しているトンネル工場には途中に3本の横穴の通路があり、材料・道具などがあった。
8月9日、その日はT子と並んでトンネル内の新しい旋盤機に向って作業していたが、旋盤機の調子が悪く、トンネル入口の事務所で旋盤機の故障部分の部品取替えの手続きをしていた。外は太陽が強烈に照りつけ、広場には、工員の弁当箱を高く乗せた馬車から馬方のおじさんが弁当箱を下ろしていたのが見えた。もうすぐお昼だが、仕事はうまくいってないのに、ちょっぴり嬉しい気分だった。手続きを終え、ほっとしたその時、台風の何十倍ものスピードで、「ピカー、ゴー」と耳をつんざく音と青白い光に襲われ、トンネル中央にズラリと並ぶ電球やもろもろの物体と共に、トンネル奥へと吹き飛ばされ気絶した。どれ位たったか不明だったが、気がついたら手足がべっとりしており、頭が痛い。トンネル入口の方だけが微かに明るく、身辺は暗闇だった。運良くT子と大声で呼び合い、ぴったり寄り添って、他の工員さんと、手さぐりしながら、横穴へたどり着いた。「B29が爆弾を落としたのだ。外はどうなっているのだろう。」と長い沈黙の中でとても不安であった。間もなく、燈油(手持の皿)を持った男性の工員の方が近づかれてきたので、ぼんやりと人の存在が見えた。横穴は身動きできぬほど工員さんで一杯になっていたが、それでも入口からは、爆弾で負傷された避難者がぞろぞろと入ってこられた。暗がりでまとっている衣服は見えなかったが、声もなく空ろな眼であった。なかには担架で運ばれてる人もいた。恐怖に身を寄せ合って、成り行きにまかせ、時間が過ぎる。何時間経ったか突然メガホンを持った男性の方が現れ「トンネル内は危険です。外へ逃げて下さい。」と言われた。T子と二人で防空頭巾を被り救急カバンをさげ、皆の後からトンネルの外へ出た。
外は、トイレ、物置小屋、馬車、道路沿いの民家、飯場、全てなくなり、緑の田畑も燃えつきて、灰色の荒野と化していた。
私たち二人は道ノ尾方面へ逃げだしたが、上空で爆音がしたので、山手の方に逃げた。山の方もあちこちに煙が漂い、どんな爆弾が落ちたのか不明であった。しばらくして爆音も止まったので駅へと下る。
線路に近づく頃はもう日は落ち、浦上の方から、被爆した人がぞろぞろと線路伝いに歩いているのが見えた。素足の人、唇がふくれ、空ろな眼、焼けただれ今にも倒れそうな弱りきった人、裸体に近い人、友人に支えられ歩く人、負傷者を背負って重そうに歩く人、まさに生地獄だった。そのなかに大橋の本工場で作業していた同級生Hの傷だらけの顔があった。
呼びかけにも応答せず、笑顔も見せぬ、頭部もやられたのか、耳の上から出血の跡が見えた。二人で支えてやっと道ノ尾駅にたどり着いた。
ホームには様々な負傷者が山のようにおり、「重傷の人だけ乗って」との声に、二人の救急カバンの中の包帯を全部取り出し、Hの頭部の手当てと、私とT子の軽い傷にも巻きつけ、何台目の救急列車だったのか分からなかったが、やっとのことで乗車できた。絶対、今日中に諫早へHを連れ帰らねばと必死だった。
車中は、負傷者でひしめき合い、大混雑の中でHを気遣いながら「早く出発して」と祈っていた。やっと動き出したかと思う間もなく、耳に突き刺さる空襲警報のサイレンが鳴り、列車が止まった。車中では乗客のうめき声とともに異様な臭い、蒸し暑さが充満していた。警報解除となり再び列車が動き出す。これを繰り返し、ようやく諫早駅へ到着し下車した。ホームで座り込む人もいたが、静まり返ったホームには、駅員も迎える人も見当たらない。私たち3人は駅近くの青年師範学校女子寮へ向かった。寮へ着くと臨時養成科の人達が深夜にもかかわらず迎えてくれ、おにぎりを3個出してくれた。T子と私は朝から何も口にしてないため、むさぼるように食べたが、Hは口に入れようとしなかった。Hと私達は別々の部屋に泊った。
翌朝、T子は自宅が天満町なので、家族と一緒にHを自宅がある佐賀まで送り届けた。私は学校へ行ってS教官に昨日のことを報告すると、S教官は即座に「それは原子ぞ。ソ連とアメリカの対立になるかも。」と話された。
原爆投下20年後から長崎原爆慰霊祭に生き延びた級友が毎年参拝し始め、数年後の慰霊祭の際に、各自の被爆体験記録を残すこととなり、その後の編集作業のなかで私は青年師範学校のM教官の8月9日以降の記録により、級友の被爆体験の詳しい状況を把握した。M教官は当時、前日の夜間作業で就寝中の学生がいる住吉寮の最西端の棟の一階で執務中、背中に火がつく熱気と青い光に襲われ、2階が崩れると同時に部屋の北隅に吹きとばされたが、幸い狭いすき間から無事這い出すことができたとのことだった。以下はそのM教官の記録によるものである。

・・・さっきまで整然と建っていた寮舎はマッチ箱を押しつぶしたように重なりあって倒れ、悲鳴と叫喚の中、次々と黒ずんだものから燃え始め、M教官は煙と炎の中、必死に生徒を探されたが、かねてからの避難場所であるトンネル工場に避難したのか一人も見えず、走ってトンネル工場入口にさしかかると、生徒全員が飛びついてきた。だが横腹から腸が見え、出血中の生徒M・Uには何一つ施す術がなかった。トンネル工場の外は黒い雨の夕立で、雨の中を海軍の方が立ち入り働いていたが、一般人はトンネルからの外出は許可されていなかった。
M教官は生徒の引率者として、どうしてもと海軍の幹部と思われる方の許可を得てトンネルから外出し、生徒を探しに行った。トンネル工場から出ると雨は止み、晴天だった。見える限り建物は全壊し、方々に火災が発生していた。道路には電線、電球、電柱など障害物が山積しており、やっとのことで大橋の兵器工場へたどり着いた。従業員7500名がいた最新鋭の魚雷製造工場の建物が飴をねじ曲げたようだった。倒れた鉄骨、ガラスの破片、学生の作業場は見る影もなかった。
次に長崎三菱兵器製作所大橋工場の分工場になっていた市立商業高校へ生徒を探しに向かったところ、途中で生徒のH・S(島原半島出身)と出会うが、元気そうだったので、みんな住吉のトンネル工場で待っていることを告げ別れた。市立商業高校分工場へ着くと、建物は全壊し、生徒も見えず、思案にくれて戻りかけた時、従業員の方らしい人が「あなたは青年師範学校の先生では…」と右腕の腕章を見て言われ、C子が純心女学校方面の丘で助けを求めていることを知らせて下さった。丘へ、丘へと数多の罹災者は焼ける市街から蟻のように向かっていた。C子を血眼になって登りながら探した。
5時を過ぎた頃、奇跡的に負傷者に交じって田の畦に全身傷だらけで横たわっているC子を見つけることが出来た。
M教官は海軍の担架隊を探しに丘を往復した。その後、担架隊と一緒にC子を救急列車に乗せる線路まで運ぶと、「後で来るから」と言い残し、生徒が集まっている住吉のトンネル工場へ迎えに行き、トンネル工場にいた生徒たちを方々から集まっていた負傷者とともに救急列車に乗車させた。
だが数百歩先には担架で運んだC子のほか、たくさんの負傷者も救急列車を待っている。M教官は機関車によじ登り、頼み込んでC子がいるところまで汽車を進めて貰ったが、自力で乗れる人で満員になり、C子とM教官は取残された。
暗くなった夜空に数時間おきに照明弾が上がり、市街地の火災はまだ続いていた。向いに見える山里国民学校も火柱を吹き上げ、燃えていた。
C子は、水を欲しがる。昼間通った岩屋川の流水をタオルにしみ込ませて、唇だけ潤してあげた。深夜になっても敵機は頭上にいた。C子は仰向けの状態でM教官の防空頭巾を枕に弱い声で「先生、安全なところへ逃げて下さい」と言い、M教官は「何を言う。死ぬなら一緒だ。」と言い地面に伏せる。このような状況が繰り返された。
市街地の火災もだんだん下火になり、周囲の負傷者のうめき声も小さくなった頃、東の空が薄明るくなり、あたりの様子が見えた。火傷された方があちこちで亡くなっており、M教官は思わず合掌した。あれほど水を欲しがった人達だったのに、願いを叶えることが出来ず心で詫びた。だがC子は生きており、守ることができた。
一夜が明けると太陽が照りつけ暑い日になったが、日陰を作る物が何もない。午前8時頃、待ちこがれた青年師範学校の救護隊で教官2人と父兄1人が来た。その後、にわか作りの担架でC子を救急列車の車内に運んだ(後日、C子に当時のことを聞くと長田小学校の避難所で消防団、婦人会の方の介護を受け、被爆後二日目にして初めてさつま芋を口に入れることができ、生き返ったとの話をした。)。
M教官は消息不明の学生がまだ数名いたため、救援教官と手分けして、方々を探し回った結果、一人を除き消息が判明したが、S・Sだけがどうしても見つからない。
見つかった学生は、諫早、大村、川棚、早岐の各駅でそれぞれ下車し、収容所にて手当てを受け、重傷者は病院で治療を受けていた。
S・Sの捜索には青年師範学校の教官が交代で当たっていた。彼女は、原爆投下時、長崎三菱兵器製作所大橋工場に勤務中であった。M教官は原爆投下後5日目に一人で当地へ向かい、アメのように曲がり倒れている大屋根の下、ガラスの破片をガチャガチャ踏みつけながら、多くの旋盤機の周りを探した。様相の変わった死体が多数あり、生徒の上衣の内側に縫いつけてある名札を一体一体調べた。何十人目かにS・Sが見つかったが、余りにも無惨な姿になっていた。佐賀高校の救援隊に協力を求め、大屋根の下から、工場の空地の合同火葬場へとS・Sの遺体を運んだ。海軍兵らしい人が火葬の作業に当たっていたが、近親者らしい人は一人も見当らない。M教官はトタン板を探してS・Sを乗せ、空地に咲いていたヒメジョオンを枕許に供え、水筒の水で口を潤した。火葬の作業を行っていた方に他の死体と一緒に火葬を依頼し、遺骨を貰える時間を確かめた後、焼け残った住吉寮の一棟で一夜を過ごし、板切れと、垂れ下がっているカーテン布を利用して遺骨箱を用意し、翌14日の朝、予定の時間に合同火葬場へ戻った。
黒々と積まれていた死体の山は、小さな冷たい灰の塚と化していた。誰もいない火葬場でトタン板の上には、多くの白骨があった。それらしいものを掘り出し、手製の箱へ納め、姿なきS・Sと午後の列車で親元へ向い、その遺骨を届けた。その後、腹部出血していたM・Uが気になり、休む間もなくその足で療養先の佐世保海軍病院へ向かった。M・Uは両親に見守られているが重体であった。夜になると爆音がし、燈火を消した病室で、じっとM・Uを見守り夜明けを待った。しかし、人影が見える夜明け頃になってM・Uの容態が悪化した。両親の呼び声にも反応はなく、段々と安らぎの顔に変わっていった。これが最期だった。M教官は自分の無力さを許してくれと冥福を祈った。終戦の詔勅はその日の正午だった。以上がM教官の記録によるものである。

この頃からM教官自身も、歯茎の出血、下痢、右腕・脇腹の火傷の痛みと生徒の生存確認の責務を果たしたとの安堵感からか体力が抜け、疲れ果てていたため、郷里の広島の田舎で療養されているが、2ヵ月後には復帰を果たされている。
無傷であった森山出身のH・Yと市立商業高校分工場から住吉のトンネル工場まで歩けたH・S(島原半島出身)は放射能のためか、紫斑が体中にひろがり食が進まず、また、有田出身のH・Sも容態が悪化し、3人とも原爆投下後30日前後で亡くなった。
森山のH・Yの墓参りに行く度に「親代りに嫁にも行かず、妹を先生にと夢見ていたのに」との気持ちがヒシヒシと私の胸を打ち、生き残った自分が代っていたらと責められる。
その後、原爆投下から数年が経過して1名、更に66年目に5名、合計11名の級友が亡くなった。
被爆直後から学校責任者の長崎市在住のK教頭とM教官には本当に良く対応していただき、生存した生徒は無事、卒業することができた。しかし、その後、被爆の後遺症、風評に怯えつつ家庭に学校にと日々の生活と戦った。昭和40年からは生き延びた級友に声をかけ合い、亡くなった級友の御霊前に集い冥福を祈っている。
この世に原爆のない平和な世界をどうしたら築けるのかと思いつつ、戦争、原爆での犠牲者及び関係者の方々に深く頭を下げ、今生きている幸せを感謝し、私の体験談を終わります。

(平成23年7月寄稿)

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