子どもたちへの伝言

~旧満州からの引揚げ体験~ 永島美惠子さん(諫早市白岩町)の戦争体験

旧満州(中国東北部)ハイラル市で迎えた昭和20年8月8日は、私達家族6人が揃った最後の日になった。運命の日の前夜、私は、のん気に姉と映画を見に行った。家には来客があり、家族の笑い声が響いていた。
翌8月9日の早朝、爆弾の音で目覚めた。ソ連軍が侵攻して来たのだ。家の中は、割れたガラスが散乱していて恐怖に震えた。家から10数メートル先の市立病院に投下されたのだ。「ただちにこの街から逃れよ」と市公署(市役所的なもの)から指令が下された。
観象台(気象台)に努める父は、数人の所員と共に職場に残り、所員の家族と私達母娘十数人で街を出た。父は、長崎測候所(後の長崎海洋気象台)に勤めていたが、昭和7年の満州建国により、昭和9年大志を抱いて満州へ渡ったと聞いている。
別れ際に父が言った「どんな場に遭遇しても、日本人として恥ずかしくない行動をとるように、命を大切に。」の言葉が胸に残っている。その場が父との永遠の別れとなった。
後日聞いた話によると、職場に残った父一行は、通信網が切断されたため、関東軍からの指令により、興安嶺(こうあんれい)(中国東北部)に連絡に向かい、その後に消息不明となったとのこと。敵の銃弾に倒れたか、疲労困ぱいで力尽きたか知る者はいない。
私たちは家を出て、炎天下を歩きに歩いて、やっとたどり着いたハイラル駅は、火の海だった。
関東軍の官舎はもぬけのからで、前日に情報を得て、一般市民を置き去りにして撤退していた。
夕暮、行き先も分からぬまま無蓋車(むがいしゃ)(積荷を運ぶ貨車)に乗せられた。途中、ソ連機の襲来に遭遇し、貨車の下に隠れたり恐ろしい体験をした。やっとたどり着いたチチハルで終戦を迎えた。母37才、姉16才、私10才、妹8才、一番下の妹は8ヶ月だった。それからは、私達母娘の「生きる闘い」が始まった。
母は、中国人の子供の乳母や掃除婦をし、姉はウエイトレス等々をした。私は、煙草工場へ働きに出たが、ここでは作業中に煙草の粉が口に入るので、2日で辞めた。次に始めた仕事は、見世物小屋や食堂があり大勢の人が集まる巨大公園での「煙草売り」。客が私の前に来ると、他の売り子たちがわっと集まって来て、小さい私はいつもはじき出されていた。1日中立っていても、売れるのは1個か2個だった。次に始めたのは「西瓜(すいか)のハエ追い」。炎天下、台の上に切って並べられた西瓜(すいか)にたかるハエを、羽のうちわで追い払う作業だが、時には居眠りをして、ハエの襲撃を受け、赤い西瓜(すいか)の面が真っ黒になっていることもあった。夕方、ソ連紙幣の日給10円を握りしめて、家路についた。そのような日々を過ごしていた。
太平洋戦争終結後、昭和21年5月から、順次、日本への引揚げが開始された。8月下旬に私たちは、日本へ帰るためチチハルを出発し、1ヶ月近くかかって引揚げ船が出港するコロ島に到着した。攝津丸(せっつまる)に乗船後、船酔い等に苦しみながら9月末に佐世保の浦頭港(現在のハウステンボス付近)に着いた。
上陸時、検疫所にてシラミなどの防疫対策としてDDT(消毒薬)の粉末をあびせられ、体中真っ白になった。その後、南風崎(はえのさき)駅から汽車に乗り、諫早を経てやっと父の故郷である深江に帰り着いた。当時10才の私には、大変な体験をした1年だった。
佐世保市針尾の浦頭公園に「引揚げ記念館」があるが、館内には当時の貴重な品々が展示され、引揚証明書や上陸時の検便で使用したガラスの棒、飯盒(はんごう)・衣類・引揚船の写真等がある。皆さんも、展示品を通して、当時の様子を知り、戦争の恐ろしさを少しでも感じて欲しいと思う。

(平成25年10月寄稿)

お問い合わせ
政策振興部 企画政策課
〒854-8601 長崎県諫早市東小路町7-1(本庁 ・本館6階)
電話番号:0957-22-1500
ファクス:0957-27-0111

より良いウェブサイトにするために皆様のご意見をお聞かせください

 この情報は役にたちましたか?

読み込み中 ... 読み込み中 ...

 この情報のページは見つけやすかったですか?

読み込み中 ... 読み込み中 ...