子どもたちへの伝言

~私の戦時中の思い出~ 寺井和恵さん(諫早市原口町)の戦争体験

私は昭和19年の3月に旧制女学校を卒業しました。出身は東彼杵です。女学校へは汽車通学でしたが、昔は厳しかったので、男子学生は前方車両、女学生は後方車両と決まっており、一緒には乗車出来ませんでした。
19年の3月に女学校を卒業予定でしたが、卒業がはっきりしないうちに学徒動員で逓信隊長として佐世保の通信係に任命されました。しかし、私は年老いた母を一人で東彼杵の家に置いては行けないので、「隣町の川棚で魚雷を作っており、そこに配属していただけないでしょうか。」と学校の方に何度かお願いしました。けれども、一旦任命されたら個人の事情は聞いてくれませんでしたので、許可が出ることは無く、仕方がないのでボストンバックに衣類などを用意して、佐世保の通信係に行く準備をしていました。ところが担任の先生が家庭の事情があるからという事で多方面に熱心に要望して頂いたおかげで、結局、私は佐世保に行かなくていいようになりました。
その後、川棚で魚雷を作っているのですが、その当時の名前は工作研究係といい、そこで魚雷の設計に配属されました。
そこで一番印象に残っているのが、設計係の場所に行くまでに平屋の家があるのですが、そこには門番がいて厳しくチェックされ、やっと自分の部署に行くことができました。
なぜ強く印象に残っているかというと、門番がいる平屋の前で手足を石に繋がれ、動くことができず、さらされていた人を見たからです。その人は、徴用に出されて逃亡しようとした方でした。首から罪状を書かれた札を下げており「妻恋しさに逃亡した」との旨が書かれていました。当時、一番重い罪でした。このさらけ出された方の酷い姿を見て「可哀相に」と強く思ったことは、今も忘れられません。
そのころは皆、あちこちから徴用といって軍から赤札がきて召集され、私も上司である大学生、専門学校の生徒さんと一緒に設計の仕事をしていました。その後、だんだん戦争がひどくなり、川棚川という川に鉄橋があるのですが、そこに沢山の焼夷弾が落とされました。その近くに馬小屋があったのですが、そこで馬がみんな死んでおり、私達は翌日、馬肉を食べさせられました。食べ物が無いからです。川棚は焼夷弾が落とされ、危なくなったので、川棚から波佐見の途中にある石木に移り、防空壕を作り、そこでまた魚雷の設計をすることとなりました。
当時、技術将校という方がいましたが、大学や専門学校の工学部を出られた方で係の監督をされる方です。
終戦後、あちこちからみんな集まり昔話をしましたが、技術将校の方が厳しく監視していたことに対し「すまなかった」と頭を下げられ謝られました。決してその方々が人を傷つけた訳ではありませんが、申し訳なかったという事で話し合いました。
また、東彼杵にも原爆で亡くなられた方の死体が運ばれてきたのですが、私は母と一緒に死体を見に行き、あまりに変わり果てた人の姿に深く悲しみを感じました。
自分の息子にもこれらの話はしていませんが、これを機に戦争を知らない大勢の方が私の戦争体験を分かってくれればと思っております。

(平成23年9月聞き取り)

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