子どもたちへの伝言

~孫に教えたい私の戦争体験~荒木 登志男さん(諫早市高来町)の戦争体験

【私の町でもあった戦争】
小学1年生であった昭和20年初夏のある日。
縁側から母親が「汽車がやられとるばい」とおろんだ(叫ぶ)ので縁先に走り出て外を見上げると、敵国アメリカの戦闘機が止まっている汽車を空襲している衝撃的な光景だった。汽車が停車していた所は、有明海側に広がる扇状地の中を横切る国鉄の有明線、その付近一帯は民家も雑木林もないため家からは丸見えの線路上。今は家も建ち並び景観は変わってしまったが、JA北高給油所横の踏切から東方向の高来斎場付近にかけての区間だった。
一方、空襲を受けた汽車は肥前山口駅方面へ行く正午前の「上り」で4両程を連結した客車だったが、湯江駅を発車し小長井駅へ向かっている途中に敵の戦闘機に発見され、奇襲攻撃を受けたもよう。
また、汽車を攻撃したアメリカの戦闘機は、航空母艦を発進してきたグラマン戦闘機1機で、客車後尾の上空から急降下しながら電柱すれすれの超低空で接近し、先頭で煙をはく蒸気機関車を目がけて「パンパン」と機関銃を撃ちながら機関車真上を飛び越えて通過した。「ブーン」と爆音を高めながら上空高く舞い上がっては宙返りをして、再び客車の後方上空から回り込んで機銃掃射を繰り返していた。
わが家から汽車が止まっている線路までは100m程の近場なので、胴体が大きく、ずんぐりとした「ずん胴型」のグラマン戦闘機がよく見えたし、機上に乗っていた飛行士2人の頭も見えた。
しばらくは、敵の戦闘機がじっと停車している汽車を繰り返し攻撃するのを縁側から眺めていたが、子どもながら無防備の客車が襲われる衝撃的な光景に身もすくみ、恐ろしくて長くは見ておれなかった。汽車は、程なく機関銃のかん高い発射音が聞こえる中を強行発車して、金崎墓地が広がる水の浦地区の山間の堀切に緊急退避したので、敵の戦闘機は攻撃をあきらめて飛び去った。後で聞いたことは、「敵のグラマン戦闘機は、汽車が走れないように蒸気機関車の機関士を機銃掃射してねらっていたようだ」とのこと。
午後になってからは、汽車が湯江駅に戻ったと聞いたので、子ども仲間で湯江駅まで見に行った。汽車は、増山製材所側の3番ホームに停車していたので、線路脇の道端から客車を見上げると、機銃掃射によって客車の窓ガラスが割れたり、車両には弾丸の貫通跡もあった。さらに真っ黒な蒸気機関車や炭水車の外装鉄板には、機関銃弾が当たって、「にぶく光る損傷跡」や「ほがされた(突き通す)丸い弾痕」も見られた。その後、親達からは乗っていた兵隊さんがケガをしたり、線路の枕木には、機関銃弾の破裂跡や砕け散ったグリ石があったと聞いた。機関車の機関士がケガをされたかは聞き覚えがない。
また当時は、敵の航空母艦から発進したグラマン戦闘機がひんぱんに飛来し、低空で飛び回っていたので、有明海で魚取りや貝堀りなどしていると機銃掃射を受け、大ケガした人がいた。親達は「海は隠れ場がないので、飛行機の音がすれば早く浜辺のトキワがや(カヤ)の茂みの中に逃げ込め」と言っていたが、その後のこと、年長仲間に連れられて干潟に下り、ブーワン(貝)やヒョウゼ(巻貝)拾いをした。その海岸端にあった中溝宅の外柱や板張り壁に「機銃弾の跡形」が沢山付いていたのを見てから、敵機グラマンの恐ろしさが分かった。それに伴い、昼夜を問わず敵機襲来の空襲警報のサイレンが鳴り響いていたが、日本の戦闘機は1機も現れない不思議な戦時下だった。

敵機グラマンから襲撃される汽車のイラスト

【不時着した日本の練習機を見た】
初夏のある日のこと、近所の子ども仲間4~5人で境川に架かる「しんばし(新田橋)」下の淵で川泳ぎをして遊んでいた。水は少し冷たかったので、泳ぎの中休みには日当たりの良い堤防石垣に腹ばったり、上向きになったりでひなたぼっこをして体の暖を取った。
心地よく寝そべり空を見上げていると、北の方角の川上神社方向から、2機の飛行機がゆっくりと飛行し近づいてきた。飛行機は真上を通過し、南の有明海方向に飛んで行くようだが、間近に迫ると2機のうちの1機が次第に遅れだし降下をはじめた。
何知らず見上げていると、先導する飛行機は後続機に接近しながら並び飛行していたが、後続機が次第に遅れて降下するのを見失ったのか、先導機は速度を上げて追い抜きながら上空へ舞い上がった。先導の飛行機が飛び去った後からは、エンジン音がしない後続機が、100mもない位の低空で真上上空を通り過ぎたので、機体は大きく見えた。
その飛行機は、境川下流の鉄橋近くまで飛んで行くと、電柱の高さぐらいまで下がっていたので、電線に引っかかりはしないかとヒヤヒヤだった。突然、中学3年の松尾の兄ちゃんが「おっちゃける(落ちる)ごたる」と叫んだので、とっさにヘコ(水泳パンツ)姿のまま飛行機を追って、下手の観音堂の方へみんな駆けだした。
飛んで行く飛行機は、見ている間に鉄橋の上の電線をすれすれで飛び越えて、たぶの木口の淵沿いに生い茂る竹薮(たけやぶ)の上で見えなくなった。みんなは、降下する飛行機をぼう然と見送っていたが、松尾の兄ちゃんが海の近くに「おっちゃけた(落ちた)かもしれん見に行こう。」と叫んだので、みんなは飛行機を見に連れて行ってもらうことになった。
有明海までは、線路南側に田井原地帯が広がっていたので道は遠かったが、目上の仲間にあせがられ(焦る)引っぱられながら、飛行機が見える海岸まで歩いた。海は干潮だったので、飛行機は遠く沖合の引き潮が残る潟海にひっくり返ることもなく不時着をしていた。
そこまでは、ドロドロの潟や海水が溜まった所があり、足元が悪かったので、松尾の兄ちゃんの背にからわれて飛行機のそばまで行った。その飛行機は、ひざ位まで水に浸かる潟海の中で、雲仙岳の方角を向いたまま着地していた。主翼の左右からは2本の車輪を出していたが、その半分は水没していた。また、胴体前にある3枚羽根のプロペラは先端が少し曲がっていたが、前輪の代役をして立っていたので、機体は水平状態に保たれていた。そのうえ干潮時で潟海が浅かったので水没は免れたが、機体には跳びはねた潟泥がくっついていた。
一方、風防を後ろにずらした操縦席には、飛行帽を被った2人の飛行士が乗っていたが、潟海のため降りられないのか、前席の人は座ったまま、後席の人は立ち上がって周囲を見回していた。しばらくの間に、うわさを聞き付けて集まった大人20~30人が、黒光りする大きな飛行機を取り囲み、物珍しく眺めていた。当時は干潮のため、海水はひざ元までだったが、子ども心にも「時間が経てば海が満ってきて取り残されるのではないか」と不安になり、背中にからってもらっている松尾の兄ちゃんに「もう帰ろう。」とせがんで帰った。
その後のこと、「この飛行機は2人乗りの高等練習機で、訓練がよくされていたので無事に着陸をしたようだ。」と聞いた。
年月は過ぎて平成21年2月、「諫早湾干陸地のクリーン作戦」があった。偶然にも地域活動で、先輩の増山忠男氏と美化作業をする機会があったので、練習機の落ちた場所など教えてもらった。「不時着した場所は、ここら付近よ。飛行機はエンジンが故障で落ちたのだろう。指導教官が上手だったので、家を避けて干潟地に着水しプロペラが前輪代わりになった。」と話していた。また、「当時は、海がすぐにも満って急だったので、引き揚げには周辺の人に動員がかかった。同時に、縄ロープや材木などがかき集められて、人海戦術で陸地まで引き上げられたので、急で至難の作業だったらしい。また、引き上げられた貴重な飛行機は、一部分が解体をされてトラックで運ばれた。」と語られた。短時間の救出劇で、人も飛行機も無事だったことが不幸中の幸いだった。

有明海に不時着した日本の練習機のイラスト

【家の前を兵隊さんとタンクが通った】
戦時中のある日のこと、境川に渡された「しんばし(新田橋)」東側の溝口方向から「ガラガラ」と大きな音が聞こえたので、何かと思い、橋の中ほどから橋向こうを眺めると往還(街道)端で沢山の人がざわめいていた。そこでは、兵隊さんが歩き近づいて来るのをみんなが眺めていた。また兵隊さんの後ろからは、トラックのような大きな車が動いてくるのも見られた。近づく兵隊さんと車の行列は、遠方の蚕の飼育場がある催青場付近まで続いていたようだ。その列は見る見る間に橋付近まで迫ってきたので、家に知らせようとかけ戻った。
しかし近所のみんなは知っているのか、往還(街道)に出て「タンクが来たばい。」と言っていた。程なくタンクと兵隊さんの隊列は「ガラガラ、ゴトゴト」と大きな地響き音を立てながら、橋を渡って目の前に現れた。その先頭は、10人程の兵隊さんが2列になって歩行されていたが、後に続いて大きな音を響かせながら、鉄の塊の「タンク」が迫ってきたので、初めて見る「タンク」が戦車のことだとも分かった。
道端には、日の丸の旗をもって出迎えをした人もいたが、目の前を車体も動輪も全部が鉄で出来た頑丈な戦車が4~5台、大きな地響き音をたてながら通ったので、子ども心にも驚き圧倒されてしまった。兵隊さんも戦車も「しんばし(新田橋)」の坂を下ってからは、家並みが続く三部壱地区を通って湯江駅の方向へ進んで行った。
その戦車の動く速さは、前と後に兵隊さんが歩いていたので、人の速足くらいでゆっくりだった。しかし、当時の県道は砂利道だったので、目の前を通る重い戦車の動輪のキャタピラ音やエンジン音、そのうえ砂利の泥道を通る地響き音が、非常に大きくて迫力があった。しかも戦車と併進している兵隊さん達は、大きな騒音と足元が悪い砂利道を歩き転進されていたので、大変な苦労だとも思った。
また、小さな子どもが初めて見た大きな戦車には、車体中央部の高い所に、1人の乗員が上半身を出したまま立っていたので、大砲の砲台が運転席への出入口になっていたようだ。そのうえ戦車の前面にある大砲の両脇にも、2人の兵隊さんが砲台につかまりながら座っていた。その大砲の砲身は、1mはない位だったし砲筒も太くはないようなので、戦車の大きさから乗組員は3人位しか乗車できなかったかもしれない。また、重い戦車は木造の「しんばし(新田橋)」を渡って来られたので、日本の軍隊では、町中を走っても小回りがきいた小型軽量の戦車が主力だったのかもしれない。
一方、目の前を通った兵隊さんは、頭に布製の戦闘帽をかぶり背中にはリュックをからわれていたが、鉄かぶとは背中に釣り下げていたようだ。また兵隊服は泥茶っぽい国防色の服、足元はゲートル巻き(脚絆)の姿のうえ、片手に鉄砲をかついで歩いて通られたので、子ども心にはかっこ良くあこがれがあったのか、紙と鉛筆さえあれば兵隊さんとタンク(戦車)の絵はよく落書きをした。
さらに当時は、戦況悪化に伴い昼夜をかまわず敵機襲来があったので、ひんぱんに空襲警報のサイレンが鳴っていた。戦車も兵隊さんも湯江の町を通って行かれたのは、九州の西方面の防衛防御が迫られたので、戦車隊が移動したのかもしれない。しかし、東目のどこから出発したのか、今からどこの戦場に行くのかは分からないままに戦車隊が通り過ぎたので、親達には戦争が身近に差し迫っている危機感があった。

家の前を通った兵隊さんとタンクのイラスト

【真上を飛ぶ敵機の大群を見た】
子どもであった戦時中のこと、夜中の熟睡中に突然に叩き起こされると、家外からは「ゴォーゴォー」と轟音が鳴り響いて騒がしかった。縁側に出て空を見上げると、家の真上から有明海上空にかけて、沢山の飛行機が空いっぱいに広がって西の方向に飛んでいた。
その夜は月夜だったこともあり、地上からは黒ずんだ20機以上の飛行機が大群をなし飛んでいたのがはっきりと見えたので、飛行機の多さには驚き圧倒された。その当時、日本の飛行機が一度に飛んで来たのは2~3機がやっとだったので、大編隊を組んで飛んできた敵機の多さからは、敵国アメリカの飛行機だとすぐに分かった。
その敵機の大群は、どこかの「夜間空襲」をするために低い高度で飛んできたのか、縁先から真上夜空を見上げると飛行機の機体が大きく見えたし、主翼の左右部分には、2台ずつプロペラのエンジン部分が付いているのも目についたので、大型の爆撃機だと知った。その飛行機の大群は東の方角から飛んできて、大空全体を「ゴォーゴォー」とエンジン音の爆音を響かせながら西の方向に向かっていたが、地上から見上げた敵機の大編隊は、前と後ろの間隔も、また斜め横の間隔も変わることもなく飛んでいたので、黒い影絵が音を出し動くように異様だった。しかも飛んでいるスピードは、プロペラ機のためゆっくりだったので、爆音が聞こえ出してから真上上空を通過し、遠く西の方向に去るまでは優に時間がかかった。その間、爆撃機は編隊を崩すこともなく、諫早方面に向けてゆうゆうと飛行していたので、敵飛行機が通り過ぎるまでは、「地上で見える家の明かりや人間の動きでも発見されたら、爆弾が落とされるのではないか。」と怖かった。
しばらくは暗闇の空をじっと見上げていたが、今まで見たことがない大型爆撃機の大群のうえ、エンジン音は空全体に響き渡る大轟音で気も動転し、恐ろしくなって電気が消されている家の中に逃げこんだ。一方、飛んでいる大型ジェット旅客機に比べれば、当時のプロペラ機の大群は、遅くてゆっくりした飛行だったし、プロペラのエンジン音はヘリコプターが何機も並んで低く飛んできたような大轟音だったので、敵機襲来となればみんなが恐怖だった。
その後聞いたことには、真夜中に上空を通過した敵の大型爆撃機は、荒尾や大牟田地方の工業地帯を低空で夜間爆撃をした後、中国本土への帰り道だったとのこと。また、月夜に見えた敵機の機影からは、当時の主力爆撃機で4発プロペラのB24爆撃機のようにも見えたので、とっさに「湯江からは近い大村飛行場から、日本の戦闘機が早く飛んで来てさえくれれば、動きが遅い敵の爆撃機はやっつけられるのではないか。」と心待ちにもしていた。
昭和20年になると、戦況悪化により昼夜をかまわず空襲警報のサイレンが「ブーブー」と、けたたましく鳴り響いて、敵機襲来を事前に知らされた。そんな時に日本の戦闘機が敵機襲来の前に空に飛び上がり、待ち伏せ攻撃をしてもらいたかったが、1機も飛んでは来なかった。飛来したのは、敵の飛行機ばかりが上空をゆうゆうと飛び回って空爆をしていたので、サイレンが鳴り響くたびに戦争への不安感がただよった。子ども心にも空全体に広がって飛んできた敵機の大群と、空全体に響き渡ったプロペラエンジン音の大轟音の衝撃は、今でも忘れられず脳裏からは消えない。

家の真上を飛ぶ敵爆撃機の大群のイラスト

【防空壕から空中戦が見えた】
戦争末ごろは、日本に飛来した敵国アメリカの飛行機による爆撃空襲が激しくなったので、「防空壕造り」がはじまった。三部壱地区でも出歩(共同)作業で、尾元墓地沿いの切り通しに、集団避難のための防空壕が数箇所堀られた。しかし、老人や子どもには場所が遠くて避難するには間に合わないので、近隣でも身近な屋敷内や畑の一角に防空壕が造られた。わが家でも50m程離れた所に畑地があったので、祖父や父親など男手による作業で防空壕掘りをした。
しかし、壕は素人による手作業で造られたので広さは畳み位で、深さは子どもの高さがやっとだった。屋根のかぶせ材は、小屋に囲っていた古柱材や薪用の棒木などを寄せ集めて、壕穴の両壁に渡して乗せ屋根にした。その上には、上泥が内部に漏れないよう有り合わせの床板材や杉皮を広げた。その後は、周囲の畑土を10cm程盛ってかぶせ仕上げた。
近所の壕を真似て造った簡素な防空壕だったので、狭い出入り口には板戸を立て掛けただけだったが、内部は畳み1枚位の広さで、高さも子どもの背丈位にはなったので、寄り添えば大人5~6人は入られる大きさになった。また、内部奥壁には明かり取り用に狭い透き間が開けてあったので、屋外を見るのぞき口になった。同じ頃、畑道を隔てて隣近所2~3軒合同の大きな防空壕も造られたので、避難時には心強かった。
ある晴れた日のこと、敵機襲来を知らせる空襲警報のサイレンが、かん高く「ブーブー」と鳴り響いた。サイレンは遅れて鳴ったのか、外に出た時には、空は騒がしかった。母親からは防空頭巾をかぶせられ、あせがられ(焦り)ながら防空壕へ逃げ込んだが、慌てた祖父母や姉達も前後して防空壕へ入った。祖父は、敵の飛行機が飛んでくるのではないかと空を見回していたが、みんなは、簡素な防空壕だったので、敵機に発見されれば機銃掃射でやられると怖かった。しばらくして何事もなく過ぎた頃、西の方角の上空から「パンパン」とかん高い鉄砲の音が聞こえた。みんなは、「なんだろう。」と防空壕ののぞき口から西の小江深海方向を見上げると、青空の中に小さな飛行機が「キラリ、キラリ」と光って動いているのが見えた。さらに小さな飛行機は、「ブーン」とかすかなエンジン音を響かせながら、「みずすまし」のような弧(こ)を描いて飛んでいたが、再度「パンパン」という音が上空から響いてきた。
敵機は、防空壕からは見えなかったので、みんなは「日本の戦闘機が、機関銃を撃ちながら敵機をやっつけているもの」と思っていたところ、祖父が「日本の戦闘機がやられたばい。」と叫んだ。みんながのぞき口から西の空を見上げると、青空の中で小さな飛行機1~2機(プロペラが2台だったので、日本の爆撃機のようだった)が、飛行機雲のような一筋の黒煙を引きながら大きな円を描き、山手の方に降下するのがはっきりと見えた。ぼう然と眺めている間に、小さな飛行機は山陰げに隠れて見えなくなった。東の水の浦の方へ行ったのは(灰色の飛行機)敵機『B29』のようだった。他の飛行機は姿を見せないまま、大空の騒ぎは収まったが、西の空全体には薄黒い煙幕だけが残っていた。この小さな戦闘機は、大村飛行場から飛び立って敵機との空中戦をしたようだが、敵国アメリカの大型爆撃機『B29』は1万mの高空を飛行していたので、日本の戦闘機はそこまでは上昇できなかった。そのため、敵機からは機関砲の集中砲火を浴びて撃墜されたようだ。防空壕からは、日本の戦闘機1機が敵機と空中戦をして撃墜されたのを見てしまったが、そのはがゆさ悔しさから、「もっと日本の戦闘機が飛んで来てくれれば、敵の飛行機もやっつけられるのに」と思った。今では、防空壕の跡地を歩き眺めるたびに戦争のむなしさが込み上げる。

煙幕の中にサイレンが響いた(わが家の店先から)のイラスト

【湯江からも見えたキノコ雲】
8月9日の原爆投下は、小学1年生の時だった。わが家でも目もくらむ閃光が「ピカッ」と光った後、大きな爆発と地響きがした。
また雲の切れ間からは、「キノコ雲」がはっきりと見えたのが今でも脳裏から消えない。わが家ではこの日、店の控えの間にいた祖父母が、訪ねて来られた野口製麺所の主人とお茶飲み談笑中だった。
私は、土間からの上がり段に腰かけていたが、母は見えなかった。その4人がいた控えの間は家の中央にあったので、境川からの川風が吹き抜ける涼しい居場所だった。しかし、曇り日は薄暗かったので、土間の天井にガラス1枚の明かり取り窓があり、外空からの明るさがもれていた。
そんな場で突然、天井のガラス窓から目もくらむ強烈な閃光が「ピカッ」と光ったので、みんなはびっくり驚いた。雲があった夏空ではあったが、思わず「稲光が光ったばい。」と叫んだ。しばらくしてから今度は、家の裏口方向から「ドーン」と大きな爆発の地響き音がした。みんなは、慌てふためき「駅付近に大きな爆弾が落ちたばい。」「おおごと。」と言って、駅方向が見渡せる裏口にかけ出した。裏口からはたきもの小屋の軒先にある柿の木の下に出て、3~400m先に見える湯江駅周辺を眺めたが、爆弾による変わった様子は見られなかった。なんとなく諫早方面を見上げると、黒い噴煙が西の空全体を覆ってきたので、薄暗く急な通り雨が来そうな空模様に変わった。次々と変わる雲行きを眺めていると、横になびく雲間からは、竜巻のような白い入道雲が「モクモク」と立ち昇っており、こわごわと見ている間に、太く大きくなって火山噴火の噴煙のように変わった。そのうえ、雲のてっぺんは「丸いカボチャ」のように膨れ上がって、「こけし人形」のように見えてきた。
音もなく刻々と変わった西の空全体をぼう然と眺めていると、横になびく雲の層を通り抜けた、白くて太い真っすぐな円柱形の雲柱が、「ドスン」と突き立っていたのがはっきりと見られた。祖父母や母も、西の天空で起こっている異様な光景には、あっけにとられてしばらくは眺めていた。
子どもながら、そばでは竜巻のような不思議な入道雲を見入っていたが、急変する雲が怖くなってしまい家の中に逃げ戻った。
日も経ってからは、敵国アメリカの大型爆撃機B29が「ピカドン(新型爆弾)」を落としたので、長崎は焼け野が原になって全滅したと聞いた。当時を思えば、爆心地からは30kmも遠く離れた湯江の町だったが、雲間から見えた巨大な円柱形の雲の柱が、原子爆弾による「キノコ雲」だったことを知った。
数日後のこと、家のそばの境川に架かる「しんばし(新田橋)」の上で遊んでいると、三部壱通りからソロソロと歩きながら橋を渡ってくる中年男性がいた。すれ違った男性は、ボロボロに裂けた袖無しシャツにズボン姿で、背中には黒ずんだ風呂敷包みをからっていたが、肌もあらわな首筋や肩口には「タマゴ大の大きな水ぶくれ」がいくつも出来ていた。また、日焼けし汗した顔や腕にも「赤いただれ傷」があったので、一瞬驚き「ひどく痛か病気のごたる」と思った。その人は、背丈程の竹杖にすがりながら、無表情で通り過ぎ、溝口地区の方向に行かれたが、歩く姿は痛々しく哀れだった。
今思えば、長崎で原子爆弾にあって湯江に避難して来られた方のようだが、そのみすぼらしく惨めな様相は、子ども心にも目をそむけたくなる程だった。今では元気にされているのか気になる。

(平成27年12月 寄稿)

湯江からも見えた大きなキノコ雲のイラスト

お問い合わせ
政策振興部 企画政策課
〒854-8601 長崎県諫早市東小路町7-1(本庁 ・本館6階)
電話番号:0957-22-1500
ファクス:0957-27-0111

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