子どもたちへの伝言

~私の原子爆弾被爆体験記~ 丸内進さん(諫早市真崎町)の被爆体験

私は昭和45年9月から諫早市真崎町の長崎県立諫早特別支援学校の西側に住んでおりますが、原爆を被爆した場所は長崎市昭和町808番地です。現在の長崎大学付属小・中学校が建っているすぐ北側です。

1 はじめに
被爆後66年経ちましたが、今までは、あまりに酷すぎた体験だったので、話をしたり、書き残したりしたいと思いませんでしたが、年月が過ぎ、大勢の被爆者が亡くなり、少なくなった被爆者も平均年齢が77歳と高年齢化し、次第に当時を語り継ぐ人も少なくなった現在、私の体験を知っていただければと思い、当時の体験を書き記すことといたしました。
被爆当時9歳で国民学校(現在の小学校)3年生だったので、広い視野で現状を見ることも出来なかっただろうし、忘れたことも沢山あることだろうと思いますが、精一杯思い出して皆さんに私の被爆時前後のことを知っていただきたいと思っております。

2 激しくなる戦争
皆さんご存じでしょうが、昭和16(1941)年12月8日に大東亜戦争(第2次世界大戦)が始まりました。始まってから終わるまで約3年8カ月間でした。この戦争は70年前に日本国がやむにやまれずアメリカ国にしかけた戦争でした。
最初は日本国が先手を取り、ハワイの真珠湾に駐留していたアメリカの軍艦を攻撃したことから始まりましたので、日本国が勝利していたのですが、間もなく占領していた東南アジア諸国を取り返され、日本国が負けるようになったのです。それは世界地図を見ても分かるように、日本の国は小さくて資源も少なく、アメリカは爆弾や船や飛行機を作る鉄やガソリンが沢山あり、人も沢山住んでいる大きな国だったからです。だから始まってしばらくすると、日本の近くの海に、アメリカの軍艦や潜水艦、また沢山の飛行機を積んだ航空母艦が来て、日本の国全体に大砲を撃ち込んだり、大きな飛行機が百機以上一度に飛んできて、昼となく夜となく爆弾や焼夷弾を、東京にも大阪にも県内の長崎、佐世保、大村、島原、この地の諫早にも隙間の無い程、沢山落としたので、多くの家が焼けたり、多くの人が死んだり怪我をしたりしました。
昭和20年8月15日、日本が無条件降伏をし、戦争が終わる1週間から10日程前に、アメリカ軍は日本(広島市と長崎市)に原子爆弾を2発落としました。広島市には昭和20(1945)年8月6日、午前8時15分、長崎市にはその3日後の昭和20(1945)年8月9日の午前11時2分でした。
原爆が落ちた時、私は原子爆弾が落ちた爆心地から1800メートルしか離れていない昭和町に住んでいました。何しろすぐ近くです。
その日の朝、私の家には、(父「庄作」は昭和16年10月に病死、11歳年上の兄「栄」は昭和20年8月1日入隊で不在)母(イサ)と姉(綾子)、力野の叔父さん親子5人(長崎市銭座町に住んでいましたが近くに変電所があり、空襲攻撃の目標となるとのことで強制疎開となり、我が家の2階に仮り住まいをして、屋敷内に家を建て替えようと解いた材木等を運んでいた)、離れに茶の木原(お父さんは出征)のおばあさん、お母さん、子ども2人の4人、全部で12人が住んでいました。私の祖父と祖母は「昭和町は爆弾の落ちて死ぬけん恐ろしか」と言って隣町の川平町(祖父の弟の小屋を借りて)に疎開(避難)しておりました。姉は県立女学校2年生(現中学2年生)でしたが、女学生でも学徒動員といって仕事に行かなければならなかったので、母と離れのお母さんと一緒に3人で、爆心地から1キロくらい離れている魚雷(潜水艦から発射して海の中を進んでいき相手の軍艦に当て爆破して沈める爆弾です)を作っている三菱兵器製作所に仕事に行っており、その日も一緒に出かけていました。

3 8月9日
原子爆弾が落ちたその日は、朝から雲一つ無く晴れ渡り、家の前の大きな柿の木からは幾種類もの蝉が鳴き騒ぎ、じっとしていても汗が噴き出すような凄く暑い日でした。力野の叔父さん(お縁で新聞を読んでいた)と叔母さん(洗濯物を干す為に庭にいた)は太陽の光が当たっている所にいました。私も太陽が当たっている庭で、草箒を持って鐘楼トンボを捕って遊んでいました。(10キロ離れていても、太陽の光が当たっている所に居た人は、全員が酷い火傷をしました。)
突然、耳をつんざくような飛行機の「ブーン」という、もの凄く大きな爆音がしました。当時はアメリカの飛行機が長崎方向に飛んでくると「警戒警報」が発令され「ブー」と長くなって注意して下さいと知らせておりましたし、もっと近づくとサイレンが「ブー、ブー、ブー」と短く何回も鳴って「空襲警報」ですから防空壕に入って下さいと知らせていました。その日は朝方「空襲警報」でしたがその時は飛行機が見あたらなかったのか「警戒警報」に変わっていました。「警戒警報」なのに何故、突然爆音がしたかというと、後で分かったのですが、原子爆弾を落としたB29はエンジンを切って高い所を飛んできたので飛行機が来たかどうかが分からなかったようです。しかも、突然大きな爆音がしたのはパラシュートをつけて原子爆弾を落とし、爆発(地上500メートル)する間に速く逃げなければ自分たちも危険なので、落としたらエンジン全開で逃げたのだと思われます。
私は一瞬、「日本の飛行機か。アメリカの飛行機か。どっちかな?」と考えましたが分かりませんでした。でもいつも母から「離れに住んでいる茶の木原のおばあさんは耳が聞こえにくいから、空襲警報のサイレンが鳴ったら教えて一緒に防空壕に入りなさい」と言われていたので、教えようと思い離れの玄関に走り込みました。

するとその途端、稲妻の光など比べものにならない「赤」「青」「黄」「緑」「黒」「紫」等のありとあらゆる色の閃光が、束となって、南側のお縁の方から私におおいかぶさってきました。
私は今まで経験したことがなかったのでビックリして、何が起こったのか分からずパニックになり、飛行機の爆音がしたことを茶の木原のおばあさん達に教えることなど忘れて、庭に飛び出ました。2、3歩庭に出た時、光と同じ方向から、今度は台風の何十、何百倍もの、もの凄く強い風が吹いてきて、その場に押し倒されました。
倒されて、「両手の親指で左右の耳を塞ぎ、他の4本の指で左右の目を塞ぎ、足は甲を伸ばし地面に着ける」と、日頃学校で訓練していた「伏せ」の動作を繰り返し言いながら行いました。すると地球が破壊されて無くなるのではないかと思うような、もの凄い音が何回もしました。私は「もう死んだ」「もう死んだ」と言葉に出しながら、本当に死んだのだと思っていました。それは長い時間のようでもあり、又、短い時間のようでもありました。
死んだと思いながら、何気なく息を吸ってみると呼吸が出来ました。「あ!生きとる!」と大声で叫んで頭を上げました。そこに見えたものは、壁土と瓦の下の泥とが、もうもうと立ちこめて、かすかにしか見えませんが、壁もない、瓦もない、柱は折れ曲がり、今にも倒れそうになっていて、つい先程までの二階建ての立派な大きな我が家が見る影もない無残なあばら屋になっている光景でした。

はっと我に返り、身体中に落ちてきて乗っていた、折れた木材や割れた瓦などを払いのけ、立ち上がりました。そして、いつも決められた場所に、袋に入れて置いてある貯金通帳とか、配給の通帳とかの重要書類と、私の教科書の入っているランドセルを持って防空壕に入らなければと思い、ガレキが山のように積もっている所を乗り越え、玄関らしいところから家の中に入りました。そしてもの凄い量のホコリで、土の上か畳の上なのか分からない所を通り、この辺だったと思われる所を、ホコリを手で払いのけながら重要書類とランドセルを探しました。しかし何処にあるのかホコリが厚く積もっていて見つかりません。すると外で洗濯物を干していた力野の叔母さんが原爆の光線をあびて、着ていた着物が燃えてしまい、全身酷い火傷をしながら台所と家の裏にある防空壕の入り口との間を、丸裸で「とし子、とし子」と長女の名を呼びながら探して走り回っていました。二人の妹たちが「ここに埋まっとると」と言って、かまどだった所の幾重にも折り重なって倒れている土壁を持ち上げようとしていました。すぐ側には自分の家で作っていた醤油の大きな樽が割れて、醤油がドクドクと流れ出ているのが見えました。私はそんな光景を見て「もうここはダメ!危ない。そうだ祖父母が疎開している4キロメートル位離れている川平町に行こう」と思い、表に走り出ました。そして「えらく汗が出るなあ」と思って手で顔をぬぐうと血が付いていました。「こんくらいは大したことはなか」と思い、力野の叔父さんたちが持ってきて庭に置いてあったベッドとか、ガレキの山を乗り越えようとした時、さっきから「歩きにくかね」と思っていた右足を見ると、鼻緒の切れたわら草履を引きずって歩いていたのです。「ああ、鼻緒の切れとる、これは捨てんば」と声に出して言って捨て、裸足になったら歩きやすくなりました。隣の家との境に植えてあったチンチク竹の間を通り抜けると、その隣のわら屋根だった辻本さんの家は、燃え上がっていて、家の中から泣きながら荷物を運び出しているおばさんの姿が見えました。

私が大きな道に出るために、細い裏道を通っていると、佐々木さんの家で3週間ほど前に生まれた真っ白い可愛い子ウサギと親ウサギが崩れた箱の側でピョンピョン跳ね回っていました。私は無意識に「お前達も生きとったか?」と声に出して言って通り過ぎました。パニックになると考えたことが言葉として発せられるようです。大きな道に出ると、沢山の電気線や電話線が折れたり、倒れかかったりしている電柱と電柱の間で切れて、垂れ下がっていました。
ふと後ろを見ると火傷が酷く、皮は剥げて関節で垂れ下がり、顔は腫れ上がり、着物の縫い目だけ残っている、とても人間とは思えないほど酷い姿の裸に近い人が、住吉町方向から、まるでオバケのようにふらふら歩いて来ました。川平に疎開していたおばあさんに似ていたので、まさかとは思ったのですが「ばあちゃん」と呼んでみたけど知らんぷりで返事がないので「人違いだったかな」と思いながら50歩程歩いて、二階建ての校舎が潰れてペシャンコになっている西浦上国民(小学校)学校(現在は付属小・中学校)の校門の所まで来ました。
すると、国民学校の脇の細い道を母が走って来るのが見えました。「お母さん」と呼ぶうちにすぐ横まで来て、私の血のついた顔を見て「どこばやられたね?」と尋ねました。「ここばやられた」と言って頭を指で指しました。もうその時は血が止まっていましたが、坊主頭の短い髪の毛を分けて見て「大したことはなか」と言って家の方に行こうとしました。私はあわてて「家はやられて、崩れてしもうて駄目、川平町に行こう」「ばあちゃんはすぐそこにおるよ」と後ろを振り返ると、すぐ横まで来ていました。何故一度は人違いと思ったのに「ばあちゃんはそこに」と言ったのか今もって分かりません。
母はびっくりして「どうして川平町に疎開した人がここに居るとね?」。それにも返事がありませんでした。今考えると二度も返事がなかったのは、爆風と爆音で鼓膜が破れて聞こえなかったのではないかと考えられます。母が「家が駄目なら川平町に行こうか」と言って、祖母を気遣いながら、三人で川平町に向かって歩き出しました。後から分かったのですが、祖母はリヤカーを借りて、家に荷物を取りに来る途中、太陽光線の当たっている道上で被爆して、酷い火傷をしたのだそうです。

歩いている途中で、火傷したり、怪我をして血を流しながら歩いたり、走ったり、人の肩にすがって歩いたり、道端に座り込んだりしている大勢の人達を見ました。腕から血を噴き出させながら、「ここをきびって下さい」と言って、わら縄を持って来る人、「私の家はどこでしょうか?」、「私の子どもはどこに行ったのでしょうか?」などと聞かれたりもしました。しかし、自分たちもどうなっているのか、これからどうなるのか分からない状態だったので、人のお世話をするような余裕などありませんでした。
私は、着ていた半袖シャツが破れて裸同然だったので、落ちていた風呂敷のような布切れを拾い、母から肩に掛けて貰ったり、裸足だったので、たまたま道に落ちていた片方の草履を拾って履いたりして歩きました。3人でとぼとぼと歩きながら周りの様子、自分たちの様子を思い浮かべ、家の仏壇の引き出しに入っていた、生きている時悪いことをして、死んで地獄に落ちて、痩せて骨と皮だけになり、争いながら我先にと、水とか食べ物を欲しがっている人が載っている「地獄の絵本」と同じだなあと思い、「本当は私も死んで地獄に来ているのではないだろうか?」などと周りを見回したりしながら歩きました。

30メートル程歩いて、昭和町と川平町の境が見える所まで来たら、道のすぐ上に建っていた3軒の家が、まるで紙くずを積み上げて燃やしているように高い炎を上げて燃えさかっていました。それを見ながら、また100メートルほど歩き、谷口さんの家の下まで来ると、母が「あそこは道のすぐ上で、あれだけひどく燃えていると道は通られんばい」と言いながら、また少し行くと、沢山の人が左側の急な坂を登っていました。母が「どこに行きよっとね?」と一人に尋ねると、「水道のトンネルに行くと」と答えました。「川平には行かれんけん、そこに行こうか」と母が言ったので、長さ30メートル位の坂を足を滑らしながら、上から祖母の手を引っ張ったり、お尻を押したりして、やっとトンネルの入り口まで辿り着きました。
水道のトンネルというのは、浦上水源地からポンプで水を吸い上げ、三菱兵器製作所に水を送るため山の中腹を掘って貯水槽を作っていたのですが、やっと貫通したばかりで、床は大小の石がごろごろ転がっていました。それでも石を除いて平らにすると、大きくて安全な防空壕でした。
トンネルの中央付近に場所を決め、石を除いて、平らになった土の上にさっき拾った布を敷き、祖母を寝かして一息つくと、入り口の方からも、奥の方からも、今まで聞こえなかった「お母さん」、「苦しい」、「痛い」、「水が飲みたい」など大勢の怪我をした人とか火傷をした人達のうめき声と、それを励ます家族と思われる人たちの声が聞こえてきました。
祖母の火傷の状態を、母が薄明かりの中で見ておりましたが「こりゃー、ひどかね。全身皮が剥げてしもうて、肉だけになっている」と言いました。しかし、そんな状態でもどうしてやることも出来ませんでした。
少し落ち着いて、トンネルから外に出て下を見渡すと、そこから見える全部の家から炎が上がり燃えていました。私の家は山の陰になっていて見えませんでしたが、しばらくして「丸内の家も燃えたげな」と誰かが言いました。しかし、まるで人ごとのようで何の感慨もありませんでした。その間にも何度も飛行機の爆音がしたので、トンネルの中に逃げ込んだり、その場に伏せたりして過ごしました。

夕方近くになって、心が少し落ち着いたのか母が「こげんしとってもどうにもならんばい、家は焼けて無いだろうけど、家の裏の防空壕の中には米、味噌、醤油、塩、梅干し、それに鍋、釜も入れとったし、力野の叔父、叔母、姪達、茶の木原の人達はどげんしとるか気になるけん、道は通られんじゃろうけど、山の中を通って防空壕が無事か見に行ってみようか」と私に言いました。その頃は飛行機の爆音もしておりませんでした。それから祖母に「家は焼けて無いだろうけど、防空壕がどげんなっとるか行って見てくるけん、寂しかろうけど、防空壕が残っておればすぐ迎えに来るけん、いっとき、ここで我慢して待っとってくれんね」と言って隣の人に頼んで、二人で出かけました。だけど多分母が言ったことは祖母には通じてはいなかっただろうと思われます。
母は、被爆した時、上から落ちてきた材木か鉄骨かで右足を打撲していたのに、気が動転していて痛みを感じないでいたけれど、少し落ち着いたその頃になって痛みだし、痛みをこらえて、足を引きずりながら倒れている木を乗り越えたり、くぐったり、除いたりしながら長い時間を掛けて西浦上国民学校の防空壕のある所までやっと辿りつきました。
そこでは先生方が、あっちに行ったりこっちに行ったり、せわしく走り回って居られました。私の受け持ちの荒木安幾先生も居られたので「こんにちは」と挨拶をしたのですが、知らん顔でした。その時はおかしいなと思いましたが、後になって同僚の二人の先生が壊れた校舎の下敷きになって亡くなられていたことを知りました。

4 姉との再会
我が家の見える大塚さんの家の下まで来た時、我が家は噂通り焼けて、跡形も在りませんでした。ただ家の横に植わっていた当時としては珍しい、大きな八重つばきの木が、焼けて立ったまま、黒い煙を上げてくすぶっているのが見えました。
その光景を見た途端、我に返ったのか母が「あや子はどげんしたろうかね?」と姉のことを思い出し、三菱兵器製作所はやられ方の酷かったけん死んだじゃろうね」と呟きました。
少し平静に戻ったのでしょうか、私も家が焼けて無いのと、今朝別れた姉が死んだのかと思い、急に悲しくなり、母と二人で声を出して泣きました。そして、姉に可愛がってもらった事などを思い起こし、しばらく立ちすくんでいましたが、我に返り「防空壕に行こうか」と言って、また山の中を歩いてやっと防空壕の抜け穴にたどり着きました。抜け穴の階段を下りて行くと、防空壕の中には沢山の人がいるのが薄暗い中で見えました。さらによく見ると土の上に板を敷き、その上に布団を敷いて一人が寝ていましたが、他の人は肩をよせ合い抱き合うようにして、土の上に座っていました。寝ているのは全身火傷をした力野の叔母さんで、太股を火傷した叔父さんを除けば他は全員無傷で「進ちゃんも無事だったね、良かった良かった」と言って私と母の無事を喜んでもらいました。
しばらくお互いに先程の被爆時の状態を語り合っていましたが、茶の木原のおばあさんが「うちの母ちゃんはまだ帰えらんが、どげんしとったろうか?」と同じ所で働いていた私の母に尋ねました。母は「すぐ近くで働いとったけど、何かの下敷きになっていて動けん状態だった、近くで火の手が上がっていたので、ひょっとすると駄目かもしれない」と言いました。茶の木原のおばあさんと子ども達は少しガッカリした様子でした。

辺りが少し暗くなり始めた時、誰かが「かあちゃん、かあちゃん、だれもおらんとね」と家の焼け跡と防空壕に向かって叫んでいる声が、かすかに防空壕の中に聞こえてきました。防空壕の入り口に行って見ると、叫んでいるのは姉でした。姉と分かり母が「無事じゃったね、みんな防空壕の中に居るけん、気を付けてこっちに来んね!」と叫びました。姉が防空壕の中に来るとみんなで抱き合って、無事を喜び合いました。そして母が、髪一つ乱していない姉を見て不思議に思い「どげんしてかすり傷一つなか状態で帰ってこられたのね」と尋ねると、姉は『強い光線と、爆風で物が壊れるもの凄い音がしたので、その場に伏せたところ、同級生が自分の上に伏せてきて、その上に柱とか梁、天井の鉄材、瓦等が落ちてきて下敷きになった。しばらくして、いろんな物の壊れる音も止み、静かになったので、起きあがろうとしたが重くてダメだったので、二人で「助けて下さい、助けて下さい」と叫んでいたら、知らない全身血だらけの男の人が来て、上に載っている物を一つずつ除いて下さったので、二人とも助かった。自分の上に被さって伏せていた同級生は怪我をしていて、あちこちから血が出ていたけど、私は何ともなかった。しかし、三人ともその場で別れ別れになり、自分は大勢の人達について行き、あちこちに行って、座ったりしながら時間を過ごしたが、飛行機が飛んで来たりしてどこも安全ではなく、最後は大勢の人達が居た、赤迫のトンネルの中の兵器工場(アメリカ軍に分からないようにトンネルの中で魚雷を作っていた)に行き避難していたが、しばらくすると家のことが気になり、道らしいところを探しながらやっとの思いで帰ってきた』と言いました。話を聞きながら、姉も運が良かったけど「私もこうして母とも姉とも会え、生きて居られるということは運が良かった」と思いました。
しばらくすると、母が「昼から何も食べても、飲んでもおらん、みんな腹のへっとるじゃろうけん、ご飯ば炊いて食べんばいかんね」、「米も、釜もそこに入れとったけん抜け穴から山の中を通って馬場さんの井戸水を汲んで米を研ぎ、アメリカの飛行機に見つからんごと、山の中でご飯ば炊いて、みんなで食べようで」と言ったので、元気な姉と従兄弟達がご飯を炊いて、梅干しとか、塩をおかずにして食べ、やっと人心がついて、防空壕の土の上に布、布団などを敷いて寝ました。途中で寝返りを打つと、冷たい土が手に触れ、目が覚め「アッ、防空壕の中だったか」と昼間の惨事を思い起こし現実に引き戻されました。

5 それから
翌朝、朝食を食べ終わった頃「婆ちゃんば探しよっとばってん、そこにはおらんね」と祖父の声が焼け跡の向こうからしました。そこでハッと我に返り、「防空壕が大丈夫だったら、すぐ迎えに来るけん」と言って水道のトンネルに残して来た祖母のことを思い出し「婆ちゃんは水道のトンネルに居るけん」と言うと、祖父も動転していたのか、我々の様子は一言も聞かず、急いで行ってしまいました。
昼頃になり、叔母さん達が飼っていた5羽のニワトリのうちの1羽が、防空壕の前の焼け跡に突然帰ってきたので、布のきれ端で足をゆわい、やけた敷石につなぎました。そして次に見た時、そのニワトリが卵を一つ産んでいました。喜んでそれを持って火傷して防空壕の中で寝ていた力野の叔母さんに見せに行くと、「これは進ちゃんにやるけん食べんね」と言われたので私が貰い、夕食に卵かけご飯にして食べました。「その美味しかったこと、その味は今でも忘れません」
次の朝一番に、また卵を産んでいないかと思いニワトリを見に行くと、かわいそうにつながれたまま死んでいました。それを足を火傷している力野の叔父さんがさばいてスープにして、久し振りのご馳走にみんな「おいしい、おいしい」と言って食べました。後になってあのニワトリは放射能障害で死んだのではないかと思うと、それを食べてよくこの年齢(75歳)まで生きられたなあと不思議に思います。
13日になって、祖父が水道のトンネルから川平町に連れ帰っていた祖母が亡くなったと知らせが届きました。母は痛い足を引きずりながら、姉と私の3人で川平町まで歩いて行きましたが、着いた時には祖母の遺体はお墓の方に行った後で、水道のトンネルに翌日まで置きっぱなしにしたお詫びも、最後のお別れも出来なかったことが、今でも申し訳なく残念でなりません。
しかし鉄道の復旧は早く、原爆が投下された日の午後からは、汽車が現在の長崎大学正門の西側、照円寺というお寺の下まで来るようになりました。そこから大勢の怪我をしたり、火傷をしたりした人たちを貨車に乗せ、大村の陸軍病院や諫早の海軍病院に運びました。次の日には、大村や諫早で炊いたご飯をおにぎりにして、木の樽に入れたものが、照円寺下に降ろされました。被災者にはそのおにぎりを一日1個配るとのことで、姉と私は2キロくらい離れているところへ、もらいに行きました。
そこは見渡す限り、一面焼け野原で、かんかん照りなのにそれを遮るものは何一つありませんでした。貨車が着くところには、すでに死んだ人も居る中、大勢の怪我人や火傷をしている人たちが折り重なるようにして、順番を待っていました。
おにぎりの詰められた樽のすぐ側には、死んで大きく膨れ上がった男の人の遺体があったり、死んだ馬が四本の脚を上げて横たわっていました。焼け残った材木を積み上げ、家族の誰かを荼毘(だび)に付している光景がいたる所で見られました。今ではありえない光景ですが、そんな光景が当たり前でしたし、そういう光景を見ても何とも感じなくなっていました。今になって思うと、本当に恐ろしいことだったと思います。
15日に日本が戦争に負け、その後の19日には、アメリカ軍が海から上陸進駐してきて、女・子どもは何をされるかわからないし、生きている者はみな殺されてしまう、という噂が伝わってきました。私は母に、「死ぬときは一緒に死のうね」と言って死ぬ覚悟はしていたものの、一方では弾が当たったら痛いだろうなぁとも思いました。

6 私の願い
このように戦争はむごいものです。勝ったアメリカの方も沢山の人が死にました。負けた日本の方も、それ以上に沢山の人が死にました。これから戦争がおきると、あなた方のお父さん、お母さん、兄弟、それに親戚、近所の人、それに、あなたたち自身も死ぬのです。本当に沢山の人が何も悪いことをしていないのに殺されます。
たとえ、運良く生き残ったとしても、破壊し尽くされ、住む所も無く、食べる物も無く、着る物も無くなり、今のような平和な生活は続けていけません。
その上、原子爆弾は一発で、広い範囲の大勢の人達を一瞬にして怪我をさせたり、火傷をさせたりして殺します。しかも目に見えない放射能が100年、200年、いやもっと長い間地球上に残り、ガンになる人、白血病になる人、肝臓が悪くなる人等、大勢の人がいろんな病気になって苦しみますし、死んでいきます。私も被爆のせいなのか分かりませんが胃ガンになり平成19年7月に胃の全摘手術をしました。
世界中には沢山(2万発以上)の原子爆弾を持った国がありますし、今から作ろうとしている国もあります。戦争になると原子爆弾を落とす国が出てくるかもしれません。そうなったら放射能が風に乗って地球全体に広がり、人も動物も死んでしまうし、植物も枯れてしまいます。地球上からすべての物が無くなってしまうのです。
だから、今のような平和な生活は続けていけません。この平和な生活を続けていくためには、世界中の国々が戦争をしないように、また、させないように、皆さんも世界の人達と手を取り合って、戦争のない、核兵器(原子爆弾)のない、平和な世界にしなければならないのです。

(平成23年8月寄稿)

お問い合わせ
政策振興部 企画政策課
〒854-8601 長崎県諫早市東小路町7-1(本庁 ・本館6階)
電話番号:0957-22-1500
ファクス:0957-27-0111

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