千々石ミゲルの墓と思われる石碑
平成15年12月14日、諫早市多良見町で天正遣欧少年使節団の一人、千々石ミゲルの墓と思われる石碑が発見されました。 この発見は、4少年の中でただ一人キリスト教を棄てた人物として、また、これまで謎とされてきたミゲルの晩年やキリシタン史を研究する上で大変意義深い発見ということで、連日ニュースや新聞などで報じられ大きな反響を呼び起こしました。
※発見者は石造物研究家・大石一久さん。石碑は現在調査中で、ミゲルの墓と断定されれば文化財として大変貴重な歴史資料となります。

ヨーロッパを見て帰ってきた最初の日本人
天正10年(1582年)長崎港を出港し、スペイン、ポルトガル、イタリアを訪れ、天正18年(1590年)長崎に戻った4人の少年たち。その年号をとって天正遣欧少年使節と呼ばれるこの一行は、日本で最初のヨーロッパ公式使節団でした。
※天正遣欧少年使節は、正使:千々石ミゲル・伊東マンショ、副使:中浦ジュリアン・原マルチノの4人で構成され、九州のキリシタン大名の使節として派遣されました。

天正遣欧少年使節
時はさかのぼり今からおよそ460年前(1543年)、ポルトガル人を乗せた中国の船が台風のために、種子島(鹿児島県)に流れ着き、鉄砲が伝えられたことは有名です。やがてポルトガルの商船は、平戸や長崎などに来て貿易をするようになりました。
鉄砲が伝えられてから6年後の1549年、イエズス会の宣教師ザビエルが鹿児島に着き、日本にキリスト教を伝えました。その後、宣教師が次々に日本を訪れ貿易の世話をしながら教えを広めました。
1563年、肥前(長崎県)の大名の大村純忠はキリスト教の洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名となります。さらに、領地であった長崎をイエズス会に寄付したので、ここが貿易と布教の中心となりました。
織田信長の晩年の頃、イエズス会の日本巡察師ヴァリニャーノ神父が来日しました。日本での布教責任者でもあったヴァリニャーノ神父は、ヨーロッパに日本人を紹介して、その援助で日本布教を勧めるとともに、帰国した日本人自身にヨーロッパの「素晴らしさ・偉大さ」を語らせて布教活動を進めるため、日本人の若者をキリシタン大名の使節としてヨーロッパに派遣することを計画しました。そして、九州のキリシタン大名である大友宗麟・有馬晴信・大村純忠の使節として伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4少年が選ばれました。
当時13歳前後の少年使節の旅は、先進文化に触れる喜びと同時に、ポルトガルの商船はインド航路を4隻中2隻が無事に帰りつければ幸いだと言われるほどに危険を伴った旅でした。長崎を出発したのは1582年2月で、この年の6月には織田信長が本能寺で暗殺されます。使節は2年6か月後にポルトガルの首都リスボンに到着。ポルトガル、スペインで国王などの歓迎を受けた後、最後の訪問地ローマでは、ローマ教皇・グレゴリオ13世自らの祝福やローマ市民権の証明書の授与など大歓迎を受けました。
しかし、出発から8年後、ヨーロッパの文化を学び、たくさんのお土産やグーテンベルグ式の活版印刷機などを持って帰国の途に着いた使節団を待っていたのは、一変した日本の状況でした。保護者である大村純忠、大友宗麟の死、そして豊臣秀吉によるキリスト教の禁教令でした。
一行はポルトガル国副王の使節という資格で日本入国を許可され、1590年7月長崎に帰ってきました。
翌年、聚楽第(じゅらくだい)にて豊臣秀吉に会い、その前で西洋音楽を演奏し、秀吉が3度アンコールしたと伝えられています。
しかし、その後の4少年は弾圧の中で過酷な運命をたどります。千々石ミゲルはキリスト教を棄て大村藩初代藩主の大村喜前に仕え、伊東マンショは長崎で病死、原マルチノはマカオに追放されて病死、中浦ジュリアンは長崎の西坂で拷問を受け亡くなり、4少年の旅は終わります。
4少年の生涯は、歴史の過渡期の中でまさに光と影のように激動の運命をたどりました。

千々石ミゲル
少年使節は帰国後、キリスト教禁教が進む中で不遇な後半生をおくったとされています。中でも、千々石ミゲルは4人の中でただ1人、帰国後にキリスト教を棄て、仏教に改宗し、結婚したとされていますが、史料が少なく没年など人生のほとんどの記録が謎につつまれています。
今回、石碑を発見された大石さんの資料によれば、・・・
ミゲルはイエズス会脱会後、名を清左衛門(せいざえもん)と称した。1606年、従兄弟で大村藩藩主・大村喜前にならい、キリシタン信仰そのものを棄て、当初は喜前の臣下となって伊木力に600石の食録をもらった。清左衛門は喜前にキリスト教は邪教と進言し、それから喜前はキリシタン禁制を出した。当時多数いたキリシタン側からは強い非難の声があがり「大敵は喜前、その根源は清左衛門である」とされ、裏切り者としての烙印を押された。喜前はキリシタン禁制発布後の藩内の動揺を鎮めるため、非難の矛先を清左衛門ただ1人に押し付け、見せしめ的に処罰した。その後の清左衛門は藩政・キリシタンの両方の勢力から追われるように大村を逃げ出し、島原半島の有馬晴信のもとに身を寄せた。だが、ここでも家臣に瀕死の重傷を負わされるなど厳しい仕打ちをうけたため、長崎に移り住んでいた。
また、ローマまで行った華々しい前半生と比較したとき、長崎時代の清左衛門は耐え難き日々を送ったに違いない。ただ、唯一、後半生をともに過ごしてきた妻だけがよき伴侶・よき理解者であったと思われるがその妻については一切の素性がわからない。その妻が1632年12月12日に亡くなった。この妻の死は、清左衛門に行き抜く上での支えをなくしたも同然だったに違いない。その妻の死から2日後、12月14日、清左衛門も帰らぬ人となった。4男だったが嫡子的立場にあった千々石玄蕃は、父縁の地である伊木力の一角に両親のための墓石を建てた。そして、この墓石に伝わる伝承「大村に対して恨みをもって死んだので大村の見えるこの地に、大村を睨みつけるように葬った」は、時代の理不尽なうねりにはじき出され、この世を去らねばならなかった清左衛門(ミゲル)の無念さをそのまま今のように伝えているように思えてならない。
・・・と書かれています。

【参考文献】
天正遣欧少年使節とその時代、大石一久さんの資料

千々石ミゲルの墓と思われる石碑の写真
千々石ミゲルの墓と思われる石碑

石碑の後には4男・千々石玄蕃の名が
石碑の後には4男・千々石玄蕃の名が

大村の地を向く石碑の写真
大村の地を向く石碑

伊木力のみかん畑の一角にある石碑の写真
伊木力のみかん畑の一角にある石碑

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